スーザン先生の家を出た後は、数週間にわたりバージニア州で英語の特訓を受けました。
それまで旅行気分だった私は、このとき初めて自分の英語力について理解し始めたのでした。でも、ちょっと、遅すぎるよね。もう、アメリカ来ちゃってるんだからさ。
まず宿題に出された英語の文章を読もうとすると、知っている単語は、"a" や "the" の冠詞か、"I" や"he/she" の主語ぐらいだということが分かり、それ以外の単語は、すべて辞書で調べることになりました。当時は電子辞書なんか持っていなかったので、それまで、たいして引いたこともない辞書を「英語の辞書は、日本語の辞書と違って左側へ開くもんなんだね〜」なんて相変わらず、かなりのんきなことを考えながら勉強していました。
学校での特訓の合間に、町へ一歩出てもドジばかり。
アイスクリーム屋さんでは、「バニラ」のアイスを英語っぽく言おうとして、「バニーラ、バニーラ」とカウンターで訴えていると「バナナのアイスはないよ」とあっさり断わられるし、マクドナルドでは、
"To stay or to go?"
(ここで、お召し上がりですか、お持ち帰りですか?)
の問いに、ニコニコしながら(分からないときは、いつも、ニコニコしていた)何回も「イェース、イェース」と答えていれば呆れられという始末。
でも、食べるまで何味か分からない、顔の大きさくらいあるスモール・サイズのアイスをほおばりながら、「そう言えば、お父さんも海外の出張先でコーヒーを注文したら、コークが出てきたと言っていたから、それよりはマシだな」などと思い出して元気を出しました。
お友だちの中にも、レストランでウエイターさんにお肉の焼き加減をさんざん聞かれていた人がいました。「イェース、イェース」ばかりの返事に困り果てたウエイターさんは「ミディアムでいいですね?」と質問を変えたとか。急に、ミディアムという言葉だけ聞き取れたその人は、肉のサイズのことかと思って「ラージ!」と返事したというから、まあ、こんなことは、きっとみんな乗り越えていくものなのでしょう。
最初はメニューが読めず、適当に指差して "This one!"と言えるようになるのにさえ、数週間かかりましたが、そうして注文した食べ物が、たまたま唯一食べられないアボカドのサンドイッチだったりするから、たまらない。
そして、たいして英語力も上がらないまま、高校3年間を過ごすことになるペンシルバニアのジョージ・スクールへ。
しかし、この頃には、もう「ヘリ行機」にも慣れて、飛行場では、だいたいどこから自分の荷物が出てくるか、すぐに分かるまでに成長(?)していました。
その日は、高校の先生が飛行場まで、お迎えに来てくれることになっていたので、余裕たっぷりにロビーへ出ると、上品な黒人の男性がひとり。私は、子ども心に、なんて穏やかで、落ち着いた雰囲気の人だろうと思い、しばらく、その紳士のほうを見ていると、「イズ ディス カナ?」(加奈さんで、いらっしゃいますか?)と、そのイメージとぴったりマッチした低い親切な調子で話し掛けられました。
カナという言葉が分かったので、「イェース、イェース」と首を縦に振ると、その人は目だけで微笑みました。
この美しい紳士は、"Hello, my name is Darryl Harper."と自己紹介しました。いつもは、名前を言われても聞き取れず、"Excuse me?"とか"Pardon me?"という言葉ではなく、思わず"What?"と聞き返してしまう失礼なパターンが多かったのですが、このときはHarperという言葉が分かったので、私は以後この先生を"Mr. Harper"と呼ぶことにしました。
数年して、Darrylという名前が発音できるようになってからも、私は、先生への敬意と、日本人的な「いや〜、年上の人は、ファースト・ネームで呼びづらいよね」という恥ずかしさから、ずっと、"Mr. Harper"と呼び続けました。
ハーパー先生に連れられてジョージ・スクールへ向かう車の窓から、フィラデルフィアの町並みや、郊外に入ってから延々と続く丘や道を眺めていると、渡米してからの数週間、どこへ行っても失敗続きだったのにもかかわらず、いよいよ本格的な留学生活が始まるんだという、すがすがしい心持ちになりました。
私の英語力では、学校に着くまでの1時間ほどの間、ハーパー先生と会話が成り立っていたはずはありません。でも私の記憶の中では、なぜかこのときは、それまでになく英語が上手に話せたような、伝えたいことを理解してもらえたような、心地よい感覚だけが残っています。
つづく。 |