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『世界の英語教室 (小学校)』「島巡り(小笠原編)」
By
Mina Hisada
/Illustration by Puri/Photos by 東京都小笠原村教育委員会 & Mina Hisada
「小笠原の言語事情」
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小学校近辺で見つけたハイビスカス
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真っ青な空、コバルトブルーの海、真っ赤なハイビスカス―東京から船で25時間。そこにはもう一つの東京、小笠原諸島(東京都小笠原村)がある。
春を迎えたこの時期、島にはクジラの親子が遊びにくる季節である。
今回はそんな小笠原諸島の言語事情をご紹介したい。
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当時の欧米系住民たち(撮影年月日不明)
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■珍しい成り立ちの背景を持つ島
小笠原諸島というと、とかくダイビング、ホエールウォッチング、
トレッキングといったアウトドアで注目されがちだが、実は言語教育や多文化共生といった面でも興味深い特徴があるのだ。
それにはこんな背景があった…。
<英語の地図を開くと、小笠原諸島は "BONNIN ISLAND" とある。これは、日本語の「無人島」を聞いた欧米系の人たちが聞き取って付けた名前だといわれています。
この島はもともと無人島で、日本人が17世紀に発見し、以後欧米人が来島・移住しました。
発見者は日本人、住み着いたのは欧米人という珍しい島です>
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当時の島の子供たち(撮影年月日不明)
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17世紀の記録によると、江戸に向けて航海していた邦人船がこの島に漂着したという。
1830年には欧米系(アメリカ、イギリス、スペイン、イタリア)の人々がハワイ諸島の人々と来島し定住。八丈島などからも人々が移住した。
その後、主に日本の本土からの移住者(特に伊豆地方)が増え、住民は欧米系と日本人などの構成になっていった。
※この島で育った人々の言葉には、伊豆地方の方言がみられるのはこうした移住があったため。
私が小笠原諸島への船中で会った80歳代の男性が、
「疎開先の内地(いわゆる「本土」のこと)では、よく伊豆の方言があるねと言われたもんだよ」と話していた。
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先生と子供たち(撮影年月日不明)
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■小笠原の言語教育
こうした多文化的背景を持つこの島では、1878年(明治11年)、
日本で初めて日・英のバイリンガル教育が行なわれた。
これには、教育に対する日本政府の意気込みが感じられる。
前年(明治10年)には、内務省から派遣された官吏・戸田謹吾が
、教員も兼ね、歴史の授業を受け持っている。
そうして始まった日本初ともいえる国語と英語の授業
は、翌年には、夜間クラスを設置。
その際、青年の男女6名を対象に授業が行われたそうだ。ただ
、なぜどこがどうバイリンガル教育なのか、
またこのバイリンガル教育がいつ終わったかなどは記録に残されていないため、詳細は不明である。
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島の中心地・大村の砂浜
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明治から大正をへて昭和に入り、小笠原が言語教育面で転換期を迎えたのは太平洋戦争のころ。
当時は日本語→英語→日本語と学校での教育言語が変わるたびに、子供たちもそれに対応しようと努力してきた。それは、今でも欧米系の50代くらいの人たちの会話からうかがうことができる。彼らは「ミー(私・僕)も知ってるよ」
や「メイビー(多分)晴れたらね」といった英語の影響を受けた独特の日本語を使っているからだ。
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現在の小笠原小学校
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小笠原は今年、返還40周年を迎える。「複雑な歴史的背景を持つこの島には、もしかすると英語教育に否定的な感情が残っているのではないか?」などの思いがよぎる中、島の教育委員会・教育課課長のセーボレー孝さんに英語教育について尋ねてみた。「英語に対する抵抗感? 特にないですよ。島の小学校でも、3年ほど前から小学校で英語の時間を設けています。ALTは、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどから毎年来ています」とのことだった。セーボレーさんにお話を伺いながら
、政府が時折口にする「離島など、遠隔地への平等な教育」の必要性を強く感じた。
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編集後記☆★☆
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砂浜で見つけた亀さん(境浦にて)
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・ 欧米系、内地からの人々、ポリネシア系の人々…
小笠原を歩いていると、いろいろな「顔」にすれ違います。
まさに、「多文化共生」を感じました。
・ 今回、親子連れと同じくらい「お孫さんとおじいちゃん(おばあちゃん)」で
旅行している姿が目立ちました。次回は、おばあちゃんと旅行していたキッズの登場です。
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