奈良市で起きた医者の息子による放火殺人事件。加害者の少年は、名門高校1年で、成績は中位。父親が厳しく息子の勉強を見ていて、それが直接の引き金になったようですが、私もいろいろな生徒を教えている手前、複雑な気持ちになりました。医者の息子で跡を継がなければならないが成績がいまいち、という生徒たちもいましたし、子供の成績向上のためには自分の人生を賭けているような親もいました。そのほかにもこの事件は、親の離婚と再婚、やってはいけないことの一線を越える普通の子など、さまざまな問題を投げかけたような気がします。
まず私がこの事件で一番強く感じたことは、子供の成績向上に対する親の献身ぶりでした。この父親を非難する一方、「子供のためを思って一生懸命やったのに…」と同情する方もいらっしゃるでしょう。しかし、「子供のため」にならなかったことは確かです。事件があった家庭の状況の詳細を把握しているわけではないので推測になるのですが、私の生徒の母親の中に、一人息子の学校の成績順位、特に「トップ」に執着する親がいて、その経験から、この父親も同様な要素があったような気がするのです。
その母親は、一人息子が私立の小学校でずっとトップを取っていたため、中学で外部入学した生徒に追い抜かれることを大変に懸念しておりました。「子供がショックを受け、地すべり的に落ちるのが心配」ということでしたが、息子の勉強を見てきた彼女にすれば、無意識のうちに子供の成績は自分の生きがいとなり、息子がトップの座を下りることは自分の敗北をも意味して、許されることではないのだと思います。また、息子の好成績の評判は、6年間母親にプライドと特権を与えたはず。ですから、2番以下は、トップの生徒の親としての特権を失うことでもあり、今後、子離れどころか、プレッシャーが強くなっていくのは目に見えています。
これを今回の事件に当てはめれば、少年の成績は、小学校ではトップだったと思います。ところが中高一貫校へ入って、中位に落ちた。勉強の意欲が落ちたのではなく、周囲の生徒ができるから「順位」が下がったのでしょうが、本質が分からない親には、当然、心配やあせりが出てきます。そして勉強を強制するのだけれど、しょせん、あせりからくる現状回復が動機だから、理不尽な叱責が多くなるのは避けられません。
父親が、なぜあそこまで強いて勉強させたのかと問われたとき、彼は外に向かって論理的に答えられないと思います。「医者にさせるため…」。これくらいしか言い様はないのかもしれません。
学校の成績で「上位になれ!」という叱責の裏に、社会理念はありません。子供も好成績の利点は知っていて、しばらくは親の言うとおりに勉強しますが、やがて「なぜ?」と自問するようになる。しかし、成績の順位など理念がないのだから、正当な答えなど見つかるはずがなく、子供の心が屈折してくるのは、こんなときだと思います。
それより、理念がないのを意識しながらも、子供に好成績をとらせるために費やす親のエネルギーにはただただ敬服します。私自身、「親の生きがい=子供の成績」という生き方はできないので(というか真っ平ゴメンなので)、その献身ぶりには頭が下がるばかりです。
正直言えば、そんなに子供の勉強にかける時間があったら、自分で何か好きなことに打ち込んだ方が、よほど子供のためにはなると思うのですが、日本では土台無理なのでしょうか。でも、そこで考えます。私の生徒の中に、親が「自分の好きなようにやれ」と、成績には口を出さないという家庭の子供たちがいるのですから。数は少ないですが、それが女の子たちに多いのは興味のあるところ。そして、私の生徒に関する限り、彼女たちの成績は大変に良い。皮肉と言えば皮肉です。主人がよく言います。「日本は女の子の方がガッツがある」と。一人っ子の男の子などと比べて、放っておかれる分、強くなるのかもしれません。
医者の息子に関しては以前、「:英語抜きの英語教室」という題で、このコラムに書きました。シドニーの息子の友達にも、医者の息子がたくさんおりましたが、彼らの環境は日本とやや違うようです。また、私の家では主人が一度離婚しており、前妻との間に3人子供がおります。今回の事件で考えさせられたこれらのことは、機会を見て逐次書くことにいたしましょう。
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