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カズの取材日記

By Kaz Nagatsuka / 永塚 和志

スポーツ記者、永塚和志が取材を通じて遭遇した様々な出来事・人々について語るエッセイです。
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Vol. 5 : Kazmanian Devil's 取材日記

 来ない。アナハイムからサンディエゴへ車で乗せていってくれるはずの日本人ジャーナリストが、待ち合わせの場所であるホテルのロビーに現れない。その人が滞在するホテルに電話をかけても出ない。携帯電話にかけても出ない。いったいどうなっているんだろう……。

 しかたなしに、僕と同業他紙のカナダ人は、2次リーグ1組の舞台エンジェル・スタジアムにタクシーで向かう。球場のすぐそばにアムトラック(アメリカ大陸を網羅する列車)駅があるからだ。僕らは正午過ぎの便に乗り込む。ホームで待っていると、ドデカイ車両が入ってくる。びびって、たじろぐほどのサイズだ。

 あとで知ったのだが、上の日本人ジャーナリスト(アメリカ在住)は朝方まで原稿を書いていて寝坊したらしい。このジャーナリストは女性なのだが、僕の母どころか祖母といってもおかしくないくらいの年齢の人だ。長年アメリカに住み、主に大リーグを中心にジャーナリスト活動をしている。だが、寝坊をした。これで、今日サンディエゴで行なわれる日本代表の練習には間に合わない。カナダ人はもうキレていた。僕も、普段ならキレていたかもしれない。あるいは、ローキックを蹴りこんで、そのジャーナリストにしばらく車の運転をさせなくするかもしれない。しかし、今回はそんな気は起こらなかった。なぜか? 日本が準決勝へ進出したという幸福感で、僕の左心房から右心房、肺など、とにかく胸の全体が満たされていたからだ。

KAZMANIAN DEVIL'S WBC 取材日記
 雨がシトシトと落ちていたが、列車の階段を上る足取りは軽かった。日本にはないバカでかい列車による旅を味わえるワクワク感もあったかもしれない。

 座席に座り、僕はさっそく窓の外を眺めた。頭のなかで音楽とナレーションが流れてきた。気分はもう「世界の車窓から」である。石丸謙二郎の柔らかな声が心地よい。僕は自然と、眠りについた。

 2時間ほどで列車は、カリフォルニア州第2の都市、サンディエゴのサンタフェ駅に到着する。初めて訪れる町だが、なんとビューチフルなことか。空は青く、太平洋から吹いてくる風が心地よい。町は整然とし、しかし人々の生活の息吹が感じられる住みやすそうなにおいがする。

 僕は、ホテルにチェックインすると、すぐに準決勝、決勝の舞台であるペトコパークへ向かった。体は疲れていたし、日本代表の練習はもう終わっていたので特に急いで行く必要はなかったが、2004年に完成した非常に新しい球場のペトコを早く見てみたかった。

 というわけで、僕は一人でホテルを出た。大リーグ、ナショナル・リーグのサンディエゴ・パドレスの本拠地であるペトコパークはダウンタウンのど真ん中にあり、僕のホテルから徒歩でわずか10分ほどのところにある。アナハイムでは、エンジェル・スタジアムが郊外に位置し、広大な駐車場に囲まれていたから、これまた新鮮だ。

 ペトコへ足を踏み入れる。あ、新しい。ピカピカではないか。そして僕はプレスボックスに足を踏み入れた。いやあ感動だなあ、と藤岡弘、並のローボイスで僕はそう言ってみた。プレスボックスは3階席と同じレベルにあり、フィールドを見下ろす感じになる。僕が球場に到着したときはもうすでに薄暗くなっていたが、フィールドの天然芝は鮮やか極まりない。プレスボックスの後方にはメディア専用のカフェテリアがあり、そこでは軽い食事(有料)をとることができる。ソーダ類やコーヒーはタダで、飲み放題だ。これはアナハイムでも同じだったが、僕はアナハイムでもサンディエゴでも、普段あまり飲まない炭酸飲料の類を毎日ガバガバ口にした。アメリカにヘビー級の人が多いのが分かるような気がした。

 それにしても、アメリカの野球場はなぜにこんなに魅力的なのか。大リーグの多くの球場が天然芝で、その多くがオープンエアか開閉式ドーム。レフトとライトが左右対称なところはほとんどない。球場のなかにプールがあったり、機関車が走ったり、滝が流れていたりするところすらある。一方で、ボストン・レッドソックスのフェンウェイパークやシカゴ・カブスのリグレーフィールド、ニューヨーク・ヤンキースのヤンキースタジアムのように、作られてから100年近く経ち、歴史と伝統を感じさせながら独特の雰囲気を醸し出しているところもある。

 そのどれもがユニークで、楽しい。たとえその球場を本拠地とするチームが弱くとも、それでも試合に足を運びたくなる。アメリカの球場はその一助どころか「二助」にも「三助」にもなっている。「ボールパーク」とは言いえて妙ではないか。日本のプロ野球の球場を「ボールパーク」と呼ぶのはおこがましいような気がする。

 もうひとつ、メディアへの対応もアメリカのプロスポーツリーグは日本と比べ段違いに素晴らしい。今回僕が取材したWBCは大リーグの試合ではないが、たとえば試合後の記者会見は球場内の広くきれいな会見場で行なわれ、必ずモデレーターという司会者がその会見を取り仕切ってくれる。また、メディアに配布される書類の量も圧倒的に多く、非常に助かるのだ。また、大リーグの球場のプレスボックスには無線LANの設備が設置されており、無線LANカードと大リーグから配布されるパスワードがあれば、いつでもインターネットにアクセスできる。

KAZMANIAN DEVIL'S WBC 取材日記
 余談だが、日本やヨーロッパでは無線LANはあることはあるのだが、無料のスポットというのはほとんどない。シグナルは暗号化され、使うにはパスワードが必要だ。日本のプロ野球の球場では無線LANなどという代物はない。だから、記者たちはたいてい携帯電話をパソコンに接続して記事を送稿しているのが現状だ。アメリカでは近年、特に都市部では無線LANのエリアがどんどんと広がっているようだ。僕は今回の旅でアリゾナ州フェニックス、アナハイム、そしてサンディエゴと回ったが、いずれの都市でも町のあちらこちらで無線LANと使うことができた。僕は滞在したホテルなどでも使うことができたから、仕事をする上で(仕事以外の"調べもの"にも)大いに、助かった。

 ほかでは、ロサンゼルス国際空港でも使うことができた。日本に帰る際、同空港で便を待つ間、どこかの大学のパツ金チアリーダー軍団が尻をプリプリさせながら移動するのも気にならないほど、僕はインターネットに没頭した。あるいは、福岡ソフトバンクホークスの編成の人(こちらはフロリダ州へ大リーグの春季キャンプを視察に行かれたそうです)が「嫁はんに何おみやげ買ったらええかなあ」と言ってきても、僕はやはりインターネットに夢中で、「マカダミアンナッツでも買うたらええんちゃいますか」と適当に答えてしまったほどだ。

 脱線しすぎた。とにかく、アメリカはスポーツジャーナリストにとってはものすごく良い環境が用意されているのだ。付け加えて言うならば、アメリカのスポーツチームには1チームに何人もの広報がいるが、これもまた素晴らしい。連絡系統がきちんと取れており、連携が良い。ジャーナリストへの対応も丁寧で、われわれとしても気持ちが良いほどだ。彼らの多くは大学のパブリックリレーションズ(PR)学部で教育を受けているが大きいのではないかと思う。残念ながら、日本の大学にはPRを勉強できるところがほとんどない。

 サンディエゴも、アナハイムと同様寒かった。WBCには各国から数多くの取材陣が来ているため、プレスボックスに全員はとても収まらない。そこで外野にもメディア専用の席が設けられていた。レフトに向かって左手にあるそのゾーンに僕の席もそこにあったのだが、とてつもなく寒い。準決勝の第1試合、キューバ対ドミニカ共和国は昼間の試合でまだ大丈夫だったが、第2試合の日本対韓国はナイトゲーム。南カリフォルニアといえば暖かい気候のイメージだが、とんでもない。この外野の記者席にはフリードリンクはなかったので、僕は試合中も何度かプレスボックスに戻りホットコーヒーを入れなければならなかった。

 とはいえ、凍える理由は寒さだけではなかったかもしれない。WBC3度目となるこの日本と韓国の試合は、前2回と同様、行き詰まる投手戦となったからだ。だが、日本は7回、代打・福留孝介(中日ドラゴンズ)の2点本塁打でその均衡を破り、一気に5得点。6-0で勝利した。そのころには僕の体はもう、ホッカホカである。「やったぜ母ちゃん、明日はホームランだね」。若い人には恐らく分からないであろうセリフを、その夜、僕は国際電話で札幌の母親に向かって叫んだ。

 決勝まで来ちまえば、もうこっちのもんだぜ。何がこっちのものなのかよくわからないが、とにかく僕は、興奮していた。合同合宿が始まった2月末の福岡から、東京ドーム、アナハイムを経て、いよいよ大会はクライマックスだ。アナハイムでの2次ラウンドでは2敗を喫し、もうだめだと思った。なのに、日本代表はサンディエゴにいる。しかも決勝の試合を戦う。普段からヘラヘラしている僕だが、余計に浮かれてヘラヘラしていた。  準決勝と決勝の間には1日練習日があったのだが、その夜はペトコパークのあるガスランプディストリクトというこじゃれた店やレストラン、バーなどが立ち並ぶ一角を封鎖し、WBCの関係者やメディアを招待して、いわゆる前夜祭というやつが行われた。僕も原稿を急ぎ足で出して、前夜祭へ行った。

 開始から1時間ほど送れて到着すると、会場はすでに和やかな雰囲気に包まれていた。路上にはハンバーガーやサンドウィッチなどのアメリカ的なものから、トルティーヤやタコス、寿司、ザリガニ、デザートの類など、さまざまな食べ物が並んでいた。また酒類も含めたドリンクもある。これらはすべて「タダ」なのだ。僕の好きな言葉のトップ3に入るものと言っても過言ではない。「食べ物、飲み物がタダ」と聞けば、僕の1分間に55回ほどのやや少ない心拍数は、その瞬間75くらいには確実に上昇するはずだ。

 僕は食べ物を物色し始めた。路上をゆったりと歩いていると、元ロサンゼルス・ドジャース監督で、今回WBCの親善大使を務めているトミー・ラソーダがダンスを踊っている。あれは何というダンスなのだろうか。僕はダンスには詳しくないので分からないが、とにかくラソーダが腰をクネクネさせながら踊っていた。95年に野茂英雄がドジャースでプレーしたとき、ラソーダは野茂のことを"My Japanese son"と呼んだが、"息子"野茂は腰をひねって投げるトルネード投法はしても、絶対にあんなクネクネ踊りは踊らないだろう。

 パーティは宴もたけなわだが、僕はメキシコの野菜炒めみたいなのをしこたま腹に入れ込み、いつも飲む第3のビールではなく第1のビール、つまり普通のビールを、食道でラフティングでもできそうなくらい流し込んでいた。一緒に飲んでいたのは、主に日本人のスポーツジャーナリストの人たち。よくスポーツ雑誌等で名前を拝見する方々もいた。そのなかでは僕が一番の若造だったと思うが、酔うと木村一八のように気が大きくなる小生は、やたらとでかい声でしゃべり続けた。

 とそこに、ジョー・モーガン氏が通りかかった。モーガン氏は元シンシナティ・レッズの2塁手で、70年代にレッズが「ビッグレッドマシーン」と恐れられていたときの主力選手。75、76年と2年連続でナショナルリーグのMVPに選出され、殿堂入りも果たしている。現在は全米ケーブルスポーツチャンネルのESPNなどで解説者を務めている。

 モーガン氏を見かけた瞬間、僕は「ジョー!」と呼びかけてしまった。シラフならできないことである。正直、このときに何を話したかはほとんど覚えていないのだが、唯一覚えているのが、次のようなことを言ったことだ。

"I was once a second baseman, and I was a big fan of yours! You have always been my hero!"

(僕もかつては2塁手だったんですよ。そしてずっとあなたのファンでした。あなたは僕のヒーローですよ〜ぉ!)

 それに対してモーガン氏は笑顔で、

"Thank you so much."

(それはどうもありがとう)

 僕のような輩にも、モーガン氏は紳士な態度で接してくれた。なんと良い人なんだ。僕は8割方酔っ払いながらも、感銘を受けていた。ただ、それだけに心が痛んだ。というのも、僕は別にモーガン氏のファンではなかった。それどころか僕が野球をやっているとき、モーガン氏の存在すら知らなかったのだ。正確には僕が2塁手だったのは中学生のときだったが、僕が中学生だった80年代の後半は大リーグの試合など、テレビでもほとんど見たことがなかった。同じ2塁手でも、僕のアイドルは西武ライオンズの辻発彦氏(WBC日本代表コーチ)だった。ごめんなさい、ジョー、嘘ついて。悪気はなかったんです。

 とにもかくにも、楽しい夜はこうして過ぎていった——。


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