(注:食事中の方は読まないでください)
bjリーグ、埼玉ブロンコスが新ヘッドコーチとアシスタントコーチを発表するというので、会見の行なわれる所沢市役所に向かった。
いつも夜遅くまで仕事をし、朝は遅くまで寝ている僕だが、この会見は午前中にあったため、前日も夜遅くまで働いていたのだけども、早起きをした。
所沢市役所のある西武新宿線・航空公園駅に行くには、東横線沿線に住む僕の家からだといくつかのルートが考えられるが、武蔵小杉で南武線に乗り、府中本町を経由して武蔵野線の新秋津で西武線に乗り換えるという方法を選択した。
月曜日だというのに、というよりも月曜日だからか、武蔵小杉からの南武線にはかなりの人数が乗車していた。それでも、僕は運良く席に座ることができた。
乗り換えの府中本町駅までは30分ほどある。僕はかばんから沢木耕太郎氏の「杯(カップ)―緑の海へ―」(新潮社刊)の文庫版を取り出し、読み始めた。この本は、4年前の日韓W杯を取材した沢木氏の取材日記といえるものだが、今ドイツでW杯が行なわれているし、僕自身も4年前少しばかりW杯を取材したということで、手に取ったものだ。
沢木氏独特の、行間からその場所の匂いや人々の息遣いが感じられる文章に、僕は徐々に引き込まれていった。
しかし。
ホジホジ。
ん?
耳を澄ませてみた。
ホジホジ。
僕の左隣には、ブルーの夏らしい半そでのYシャツと濃紺のネクタイを上に、下はネクタイとほとんど同色のパンツを履いた30代後半と思われるサラリーマン風の男性が、僕と同じように文庫本を片手に座っていた。
片手に、である。
ちなみに僕は、座って本を読むときはほとんど両手で両端をつかむ。しかしその男性は片手だ。では、もう一方の手はいずこに?
人間の顔の中央に高らかに隆起する山脈、そう鼻にある。男性は、この満員に近い電車車両のなかで堂々と指を鼻の穴に挿入していた。ホジホジの原因は彼だったのだ。
僕は若干潔癖症の感があるので、こういう光景を見ると本当に気分が悪くなる。ご丁寧にその男性は両方の穴から均等に、そのモノを取り出し、人差し指と親指でコンパクトに丸めてからその手を自らのヒザの間に落とすのだ。
こうなると、僕にとってもはや沢木耕太郎どころではない。沢木氏が作品で選手とボールの動きを書いている一方で、男性は自らの鼻の穴からボールを作り出し、自分の足元にパスを出していた。彼が自分の「モノ」を足でトラップしていたかどうかは定かではないが。
しかも、僕がその男性の行動に半ば嘔吐感を覚え文庫本を読むどころではなくなっているというのに、彼は左手に持った文庫本からほとんど目を離さない。電車のなかという半ば公衆の場で、これほど臆面もなく鼻の穴から汚物を取り出しているのにもかかわらず、左手に持つ書物に強力な集中力を見せる男性に、僕はある種の尊敬の念を抱き始めていた…。
いやいや、いかん。こんな不道徳な人間にリスペクトするなんて。僕は気を取り直してなんとかこの男性にその行為がいかに一般的に認められないものであるかを教えたかった。
気付いていたのは僕だけではない。男性の目の前につり革につかまりながら立っていた中年の男性も、男性がヒザの間に汚物を投下するたびに身をやや後ろに下げていた。そして電車がある駅で停車し乗客がある程度少なくなったときを見計らって、別の場所へ移ってしまった。
途中、僕はこの中年男性と目が合った。会話はもちろんしなかったが、互いに思っている感情はアイコンタクトで容易に理解できた。その連帯感に喜んでいたら、彼は場所を移動してしまった。
なんてこったい。これで僕は孤立ではないか。まあいい。この困難に立ち向かわずに逃げてしまうような男は「カズマニアJAPAN」には要らない。
そして僕は、どうやって男性にその不潔な行為をやめてもらおうかと思案した。
「なにしとんじゃ、ワレ! ばっちいことすんなや!」
とはじめからケンカ腰で臨むのは嫌だ。なんかダサイ。僕はやしきたかじんではない。
悩みに悩んだ。どうしよう。もうすぐ府中本町に着いてしまうではないか。
と、焦りながら、府中本町の手前でようやくいいアイディアが思い浮かんだ。
そして即座に、僕はそれを実行に移した。
「あの…」と言って、僕は男性のブルーのシャツを軽く引っ張った。男性は何も言わず、僕の顔を見た。
「落し物ですよ」
僕は男性の足元を指差した。
驚いたことに男性は最初何を指しているのかわかっていなかったようだ。戸惑っている彼に、僕は説明を加えてあげた。
「さっきからずっと落としてますよね、それ」
あえてそのモノの名称を言わなかったあたりが僕の最大限のやさしさである。男性はようやく気が付いた。
「あっ…、すいません……」
僕も男性も府中本町で降りた。僕は乗り換えに時間があったためゆったりと歩いたが、男性はそそくさと階段を駆け上っていった。
それが、彼が忙しかったからか、あるいはそうでなかったかは、分からなかった。
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