先月、シンガポールに戻るために引っ越しの荷物をまとめていて意図せずに2キロ痩せるまで、自分のことを「捨てられない人」だと思ったことはなかった。日本で過ごした3年間でため込んだものすごい量の物に驚いた(というか、むしろ恐れおののいた)。
カップやマグカップが8つ、コップが5つ、一人暮らしにしては多過ぎるお皿やスプーン、どうしたら終いにはこんなにたまるのだろう? 買わずにはいられなかった本や雑誌の山、果たして読み終えられたのだろうか? 日本のさまざまな場所を訪れたときに集めたポストカードや旅行パンフレットの束をどうするつもりなのだろう? それに、こんなにたくさんのバッグに、服、靴、本当に必要な人がいるんだろうか?(皮肉なことに、「少ないことはいいことだ」と印刷されたトートバックを持っていることに気が付いた。)
残念ながら、荷物を減らすよりも、体重を減らす方が簡単だった。使えるものを、特にまだ気に入っているものを、捨ててしまうのはもったいなく思えた。誰かにあげた物もあったが、もしかしたらいらないかもしれないものを押し付けて困らせたくはなかった。
特に、たとえ紙切れに走り書きされたものであっても、お礼状などの思い出の品々を捨てるのは不可能だと思った。授業で生徒たちが書いた名札もとってあった。名札には生徒が描いた絵があり、とても捨てる気になれなかった。
何人かの同僚が親切にも手伝いを申し出てくれた。ほとんど全員が同じアドバイスをくれた。「捨てればいいんだよ!」。ある人は、「過去数年間に使ったり見たりしなかったものは捨てるといいよ」と言った。彼女は職場で一番きれいな机の持ち主の一人で、いつも整理整頓されていた。彼女は「断捨離」という概念を話してくれていた。断捨離とは、断つ、捨てる、離す、ということだ。
「断捨離は精神状態に良いのよ」と彼女は言った。
そうだろうと思ったので、できるだけたくさん捨てようとした。私のアパートが前よりも散らからなくなっていくのを見るのはなんとなく開放的だったが、捨てられなかった物に意気消沈した。好きだったものを物理的に思い出させてくれるものや、思い出の宝庫に目に見える形でつながりのあるものだった。忘れることはないと分かっていても、思い出させてくれる何かがあっても害にはならないのでは?
結局、自宅に12個の箱を送ったが、それでも飛行機に乗るときの荷物は多過ぎる。このエッセーをあなたが読む頃には、私は、願わくは税関を無事に通って、シンガポールの家にいるだろう。
大好きな国を出ることで、私は物理的なものへの愛着を減らすことがいかに重要かを学んだ。新しい物を手に入れる時間を減らして、すでに持っている物を楽しむ時間を増やした方がいい。思い出やみんなの愛はいつもそばにあって、私の心にはいつでももっと余裕ができるだろう。