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2013年9月13日号掲載の記事(ST編集部訳) print 印刷用に全て表示
Essay

Garry Davis: world citizen (p. 9)

ギャリー・デービス、世界市民

心を動かす多くの人々が平和のために活動してきた。そのほとんどは比較的知られていない。これは、その一人、ギャリー・デービスの話だ。

ギャリー・デービスは、1921年にアメリカで生まれた。ショービジネスの家庭の出身で、大学で演劇を学び、ブロードウェーの俳優になった。彼の夢は喜劇で世界に笑いをもたらすことだった。

ギャリーの夢は第二次世界大戦で中断された。彼はアメリカ空軍に招集され、爆撃機のパイロットとして訓練された。戦争中、彼はドイツの都市に爆弾を落とし、罪のない何百万人もの市民を殺してしまった。

戦後、ギャリーはショービジネスの世界に戻ることができなかった。あまりにも多くの死と破壊を見てしまったせいで、コメディアンにはなれなかった。戦争の愚かさに怒り、他者を殺した罪の意識を感じ、核軍備競争を心配していた。

彼は平和について勉強を始めた。戦争の主たる原因はナショナリズムであると結論づけた。攻撃的な国家同士が争いを始め、「善かれ悪しかれ自分の国だ」というモットーの下で戦う兵士を送るとき、戦争が始まる。それとは対照的に、彼は「世界は一つ」というスローガンの下で平和に暮らす人々を思い描いた。

ギャリーは行動したがっていた。友人たちは我慢するように諭した。しかし、ギャリーは待てなかった。彼はジョージ・ワシントンとトマス・ジェファソンは英国からの自由を手に入れるために待たなかったと主張した。彼らはイニシアチブを取り、独立を宣言した。彼は平和のためにも同じような行動が必要だと感じていた。

1948年、ギャリーはフランスにあるアメリカ大使館を訪れた。パスポートを出すと、国籍を放棄し、自分は「世界市民」だと宣言した。彼の劇的な行動は、すぐに世界中で放送された。アルベルト・アインシュタインやアルベルト・シュバイツァーから応援のメッセージが届いた。

国際的な支持団体がギャリーの周りで大きくなっていった。彼は国連と話して世界市民の集会を開催し、2万人が参加した。世界中から何千通という手紙が押し寄せ、多くは宛先に「パリ、世界市民、ギャリー・デービス様」と書かれていた。

次に、ギャリーは「世界パスポート」を作り、インドに招かれたときにそれを使った。世界中の難民や知識人、学生から申し込みが来た。1948年以来、およそ100万人の人々がギャリーの団体ワールド・サービス・オーソリティで「世界市民」として登録されている。その数はフィジー、アイスランド、ルクセンブルクなどの国家の人口を上回る。

ギャリー・デービスは、今年91才で亡くなった。彼は戦争の恐怖を経験したが、人生を平和に捧げた。彼の「世界市民」としての人生はたやすいものではなかった。しょっちゅう逮捕され、刑務所に入れられ、国外追放された。それでも、若者が戦争を止め、国際理解を促すために行動を起こすべきだと熱く思っていた。

私は、1995年の国際平和会議でギャリーに初めて会った。毎年、私は学生たちに彼の人生と活動について教えている。彼のドラマチックな物語は、教科書やテレビのドキュメンタリー番組でもっと知られるべきだ。国籍を聞かれたら、ギャリーはいつも誇らしげに「私の国は世界です」と言ったのだった。

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