日本語で日常生活を送るのは4年ぶりだ。少し緊張していたが、みんなが心配しなくていいよと言ってくれた。「自転車に乗るようなものだよ。すぐに慣れるよ」と彼らは言った。
確かに自転車―ただし少しさびついた自転車に乗るようなものだった。ギアはどちらかと言えば硬くて、タイヤは空気が少し抜けていて、あらゆる動きが慣れていたものよりもだいぶゆっくりだ。ベルは以前のようには大きく鳴らないので、言語的に衝突しそうになっていることを警告するのが難しい。また、サドルがしばらく調整されていないので、ぴったり快適な位置にない。しかし、予想よりも時間がかかることがときどきあっても、私の日本語という自転車はAというところからBという場所へ私を運んでくれる。
通勤する人や歩行者が動く余裕を空けてくれると、非常に助かる。私の住む小さな町で、私が理解できるように話し方を変えなければならないときにパニックにならない人々の数をとてもありがたく思っている。
最初の人はウェイトレスだった。私は最初、彼女の「どちらがいいですか?」という質問に「はい、お願いします」と答えた。すると彼女は、言ったことをもう一度ゆっくりと繰り返し、指を使って2つの選択肢を示した。当たり前のことに思えるかもしれないが、私が出会ったほかのスタッフの多くは単に言ったことを繰り返すだけで、1回目と同じ理解できない速さで話すのだった。
コミュニケーションが素晴らしかった人の2人目は、電器店の女性だった。私のインターネットのセットアップがどのように行なわれるかを説明するときに、図表を書いて、砕けた日本語に切り替え、箇条書きで物事をリストアップしてくれた。
3人目の人は最も難しいことをしてくれた。英語でさえも、保険の内容を説明し、理解することは悪夢だ。しかし、この紳士は、ジェスチャーと簡単な日本語を使って、私がどのような状況で何がどのくらいの期間保障されるのかを確実に理解できるようにしてくれた。とてもありがたかったので彼にどれだけ素晴らしかったかを伝えた。彼は安堵のため息をついて、私が住んでいる建物の別の外国人で練習になったことがあり、ずっと冷や汗をかいていたと語った。
コミュニケーションは自転車に乗ることのように、周りのみんなの努力だ。誰かが道を譲り、お互いに気を配り、必要なときに理解よく助けてくれると、ずっと快適な旅になる。そして概して、言語を勉強することは本当に自転車に乗るようなものだ。ぐらつくかもしれない。公衆の面前でガシャンと転ぶかもしれない。終いにはこぶやあざが少しできるかもしれない。しかし、それでも最後には前進できている。