「日本人の男とは付き合っちゃだめよ」と、ディナーで私の横に座っていた若い日本人女性が忠告した。「日本人女性は今も世界中で人気があるけど、日本人男性は一般に、うーん、日本人男性は最悪だって知られてるわ」と彼女は言った。
そんなわけで、大ざっぱで乱暴なひと言で、彼女は自分の父を含め、そのテーブルについていた日本人男性全員を侮辱した。私が知っている親切で賢く、私利私欲がなく、才能があり、野心があり、愉快な日本人男性全員に代わって — 私の友人、ホストファザー、元生徒、以前の大家さん、以前の雇用主、地元の喫茶店の人たちを含め — 、私はその夜の残りの時間、この女性にはグラスにおかわりを注がないことにした。
悪い、もっと悪い、最悪である。比較をすることは、どの言語でも学ぶのに強力なスキルだ。しかし、社会的な状況では、特に人と初めて会ったような場においては、非常に否定的な比較に飛ばないようにするのがおそらくベストだろう。
「人によると思いませんか?」と尋ねると、その質問に彼女は平均的な日本人女性なら同じように考えると言った。たとえそうだったとしても、私の意見ではかなりいい人たちに思える日本人男性を前にして、彼女の考えを公表するという選択をすることは私には腹立たしく思えた。
良い、もっと良い、最高に良い。「隣の芝生は青い」ということわざに相当する日本語はあるだろうか。このことわざは、周囲の事情が異なれば、状況がより良くなるだろうと人々が想像するさまを描いており、その別の可能性が実際には改善にはつながりそうにない場合に使われる。この女性は日本人ではない男性と結婚しようとしていて、だから彼女は、彼女にとってより青く見えるところへ — 世界の他の場所へ — 行こうとしているのだと私は思った。
別のケースでは、私の友人の1人が混血の赤ちゃんを出産したことを知ったときに、ある生徒が「その赤ちゃんは絶対かわいいですね。ハーフの赤ちゃんは日本人の赤ちゃんよりもかわいいですから」とコメントした。彼は、混血の赤ちゃんということは青い目をしているとも決めつけていた。白人の友人がかつて、日本人の赤ちゃんのほうが西洋人の赤ちゃんよりもかわいいと思うと言っていたことを考えると、これは興味深い比較だった。
友人の赤ちゃんは、愛らしいおじいちゃんの顔をした巨大なぶどうのような様子から、愛らしい笑顔をしたふっくらした頬の天使になった。他の赤ちゃんよりもかわいいと思う人もいるかもしれない。両親はきっと一番かわいいと思っているだろう。しかし、その赤ちゃんに実際に会ったことがなければ、誰もその意見を言うことはできない。人間は、その人物が結びつけられるグループとしてではなく、それぞれ一人の人間として判断されるべきだ。しかし、液体まみれの明るい赤い色をして泣いているしわしわの肉の塊を、すでに生まれたときに「かわいい」または「そんなにかわいくない」というカテゴリーに分けることができるのなら、どんな人種であれ性別であれ、大人の人間が(美醜を)決めつけずにいられるだろうか?