STが、シンガポールの若者としての私にリー・クアンユー氏がどんな意味を持つのかについて書いてはどうかと提案をくれたとき、私は喜んで同意した。
3月23日にリーさんが亡くなってから1週間が経った今、私はキーボードを叩きながら涙目になっている。その週は、私たちの国が国民一体として嘆き悲しみ、シンガポールは暗い1週間となった。
このような悲しみと悔やまれる思い、喪失感の入り交ざった気持ちをこんなに深く感じるとは思ったことがなかった。シンガポールを建国した首相であるリーさんには会ったことがない。集会での威勢のいい演説をしているところは、テレビでは見たことがあるが、その場にいたことはない。こんな小さな島が生き残るのは不可能に思えた頃にリーさんにリーダーシップを見出していた年上の世代には、私は属していない。
私は1980年代に安全で安定したシンガポールで育った。私たちは、我が国の歴史を教科書や、博物館の訪問、年配の人々の話から学んだ。私たちは、リーさんがシンガポールの変遷において重要な役割を果たした中心人物と考えていた。
その途中で、私たちは彼についての別の見方を耳にするようになった。私は気づけば、彼の政策とそのいくつかを取り巻く議論について考えていた。仲間の多くが、すでに伝説的になっていたその指導者に批判的になっていった。
しかし、私たちは気づけば、激動の時代にリーさんと共に闘ってきた我々の先人たちと並んで立っていた。リーさんが安置される際に敬意を表するために、私たちは仕事を休み、あるいは、夜中や暑い太陽の下で最大10時間も並んだ。この1週間、私たちは歴史を味わい、リーさんについてこれまで知っていたことよりももっと多くを学んだ。
私たちはシンガポールの高齢者から、リーさんが彼らにより良い生活を与えると約束し、それらの約束をどれだけ果たしてきたかを聞かされた。普段は顔色を変えないシンガポール人たちが感謝の気持ちを表現しながら泣き崩れるのを見て、心を打たれた。私たちは、自分たちがどれだけのことを当たり前のように思っていたかを認識した。リーさんの見解のいくつかに反対する人もいるかもしれないが、シンガポールに対するリーさんの献身と貢献を誰も否定することはできない。
私たちは自分自身についても知った。シンガポールをシンガポールとしているものの多くと、私たちをシンガポール人としているものの多く―3つだけ挙げれば、多民族、二言語使用、能力主義の信奉―は、リーさんが私たちの祖国に対して持っていた展望にたどることができる。
シンガポール人は表現が上手なことでは知られていない。しかし、私たちは自分たちの一体感と、その遺産が私たちの周り、そして、私たちの中に生きづく彼への感謝の表明に驚いた。というのも、私たちはどんな国民になれるかを彼が示したのだから。
だから、最後のお別れを言うために、リーさんの葬列が国葬まで15.4キロの道のりを行く間、私たちは通りに並び、豪雨でずぶ濡れになった。
ありがとう、リーさん。ちょうどあなたがそうしたように、私たちがシンガポールのために最善を尽くし、もっと多くの努力をしますので、頼りにしてください。