日本人の近くに住んだり、彼らを教えた初めての経験は、1980年、シンガポールでのことだった。私はアメリカ人だが、シンガポールで教える仕事を得る前に、イギリスとイランに住んでいたことがあり、イングランドから飛び立った。東南アジアで過ごすのはそれが初めてだった。
当時、日本はすでに世界第2位の経済大国になっていて、名目GDPは1兆ドルを超えていたので、シンガポール ― 東南アジアのビジネス界の中心であり、中国人、マレーシア人、インド人のるつぼだった ― に住んで働いている日本人がたくさんいた。
私がロンドンに住んでいたときから、日本のものに対する関心が世界中で高まっていた。イギリスのバンド「ベイパーズ」の曲「ターニング・ジャパニーズ」は1980年にヒットし、和食や寿司の料理店が増えていた。
シンガポールの語学学校で初期に経験したことの一つは、個人レッスンの生徒との出来事で、日本の大手銀行のシンガポール支店で重役を務めている日本人だった。彼は私に、日本ではマンションに住んでいて、成田空港から家までリムジンに乗ったと話した。"mansion"の元々の意味は、億万長者が住んでいるような巨大な家のことで、"limousine"は運転手付きの、車体が大きくて長い高級車のことなので、私は、自分の生徒がとても裕福に違いないと思った。和製英語をほとんど知らなかったのだ。
その学校で別の日本人学生が、私に自己紹介をして、名前を言ったのだが、私は彼が「ミッキーマウス」と言ったのだと思った。実は、彼は日本式に、名字の「三木」を先に言い、名前の「まさひろ」を「まさ」と省略していたのだ。私はすっかり戸惑ってしまった。
シンガポールでは和食と和食の料理店が私の学校に来ている人たちの間で大流行していて、私たちはよく、学期末の集まりで生徒から新しい食べ物を教えてもらっていた。それには、寿司や刺し身、すき焼き、串揚げなどがあった。
イギリス人である当時の妻は、寿司にとても感動して、新鮮な刺し身を買って、酢飯をつくり、握って作る「握り寿司」を家で作ろうとした。彼女は、近くの日本の大型スーパーマーケットからおろしわさびのチューブも買ってきた。家に帰ると彼女はとてもがっかりしていた。米粒一つ一つがくっつかなかったからだ。どの「握り」も崩れた。日本や他の東アジアの国の短くてくっつきやすい米ではなく、長いタイ米を使っていたからだ。経験から学ぶということだろう。
そこでの3年間で私が出会った日本人学生は皆、ご存じのようなステレオタイプ通りだった:礼儀正しく、謙虚で、少し恥ずかしがりやで、勤勉で、まじめだった。行く前に、日本人についてもう少しよく知っておけばよかったのだが!