その日本人女性は私たちのブースにやってきた。私は所属する会社の英語トレーニングサービスをPRするためにここにいたので、彼女に微笑んで英語で話し掛けた。「こんにちは。ご機嫌いかがですか? イベントを楽しまれていますか?」 その女性は、不意を突かれたように私のことを見た。私の問い掛けに手短かに答えると、まっすぐ同僚の方に向かった。彼は同じことを尋ねていたが、彼女は突然さっきよりもずっと生き生きしておしゃべりになったように見えた。
日曜日に勤務していた理由の1つは、このイベントに訪れた人に私の顔を見せるためだった。既成概念にとらわれずに考えることを推進するイベントで、来場者が英語を話す私の顔にどのような反応をするかを確かめることに私は興味があった。ほかの英語学校の広告ポスターとは違い、英語話者と教師たちはさまざまな(肌の)色をしている。私は自分の所属する小さな会社で唯一の有色人種の英語教師であり、気がつくとブースに来た来場者と私たちの学校の教師とのやりとりを観察していた。私を無視したり、そっけなくあしらって別の教師のところへ行く人の数から判断するに、いくつか不思議に思い始めたことがあった。
来場者たちは、白人の同僚の方が魅力的に思い、彼らと話したいのだろうかと疑問だった。あるいは、もしかすると、無意識のうちに、異人のように見える人と英語で話しているところを見られたいと思っているのかもしれない。もしくはおそらく、私の名前と会社での役職が書かれた名札はあっても、私が英語を話せるとは思わなかったのかもしれない。しかし、誰も私の名札を見ていなかった。彼らは私の顔を見ることもほとんどなかった。私はほとんど目に見えないもののようだった。
日本社会に溶け込むにはいくつかの利点もある。子どもたちのなかには、乗っていた電車の車両に明らかに日本人ではない人物が入ってくると、遊ぶのを止める子どももいる。でも、私が乗ってきても、日本人の子どもたちや大人は普段と同じように振る舞い、話しているのがわかる。もう一つの利点は、人々は私と話すことにあまり関心を持たないので、とても社交的にならなければならないことだ―会話を始める一番手にならないといけないことが多い。
日本には英語話者のステレオタイプに合った金髪で青い目の教師を間接的に求める幼稚園がある。私とかかわろうとしなかった人々は、そういう幼稚園に通っていたか、現在、似たような語学学校に通っているのかもしれない。それで、彼らが見慣れて育ったステレオタイプの英語話者と話すことにより興味を示したのだ。私の顔の価値がこのイベントでここまではっきりと示されたのを見て、少しがっかりした。
それでも私は、1人の日本人男性とその娘を相手に、どうにか情報に富んだ会話をすることができた。彼は私の顔の向こうにある価値を見出すことのできる数少ない人の一人だった。彼は英語を話す機会だけではなく、別の人間について知る機会を見ていたのだ。娘さんもそうであったことを願いたい。