ツイッターに脳を壊されたように思う。
私は2009年からこのソーシャル・ネットワークのファンだった。ツイッターは、友達と連絡を取り合い、知らなかった人と出会い、面白いジョークを目にするのに素晴らしい手段だ。面白い記事や猫の動画へのリンクがたくさんあり、平日の休憩時間にチェックインするのに素晴らしいサイトだ。
しかし、ここ数年はときどき、ツイッターがぶらぶら過ごすのに適した場所から、反応したり、インターネット上で叫んだりするための目的地に変化した。最初は私のタイムラインにいる人たちが特に主張が強いだけで、たぶん少しいら立っているのだろうと思っていた。だが、ツイッターが、誰もがとりあえずは使っているが、不快な場所になったという意見を他のたくさんの人たちからも耳にし、同じ感じについての記事を無数に読んだ。
ツイッターでは、関心を最も引く投稿はある話題について極端な立場を取る傾向がある。ほとんどの問題には ― 大統領についてでも、ニュースの話題やテレビ番組『ゲーム・オブ・スローンズ』についてでも ― 微妙なニュアンスがあり、単純に良い・悪いで表せるものではない。ツイッターではそうではない。短い文字制限のおかげで、より深い思考を表現するのはほぼ不可能だ。だから、強い主張をする、あるいはツイッターのユーザーが呼ぶように「見解」を提示することは、このプラットフォームを利用する主力のアプローチになっている。
このことは、政治のことや社会的公正の問題のこととなると、うなずける。これらは人々が熱くなる真剣な話題だからだ。しかし、ツイッターでは、何もかもがデジタルの危険なものになる。テイラー・スウィフトの音楽ビデオは単に良い・悪いというものではないのだが、「史上最高」か「人種差別的で性差別的だ」となる。スポーツやテレビゲーム、ネットで広がる情報 ― ありとあらゆるものが、ツイッター上で激しく議論されている。反対の意見を実際に聞きたがる人はめったにいない。彼らは単に、自分の意見をオンライン空間で叫びたいだけなのだ。
驚くことではないが、アメリカの大統領選の結果はあらゆる状況をさらに悪くした。強く意見の分かれる選挙におけるドナルド・トランプ氏の驚きの当選は、その雰囲気をさらに白熱させただけだった。確かに、ツイートされていた多くの話題は議論に値する。しかし、人々はツイッターで物事を本当には話し合っていない。そうではなく、人々は何か他の事をする代わりに、彼らの意見が聞こえない個人に向かって叫んでいる。その結果、ツイッターは今や楽しさよりもストレスを感じるものとなった。
日本語でツイッターを使っている人たちに関してはあまり同じではないという感じがする。日本語だとよく考えられた意見を書きやすく、漢字のおかげで140文字の字数制限に収めるのはより簡単だからだというのが理由の一つだろう。2017年はきっと、もっとオンラインで日本語を書く練習をしようと思う、心を休ませるために。