「Curiosity killed the cat.(好奇心は猫を殺す)」。これは、正当な理由がない限り、実験したり、調べたり、疑問を持ったりしないようにと警告することわざだ。私はこのことわざが嫌いだ。なぜなら、(1) 私は猫が好きだし、(2) 好奇心は人生を面白くするからだ。
ほとんどの親は、自分の子どもが「なぜ?」「なぜ空は青いの?」「なぜうんちは茶色なの?」といった質問をし始めた(もしくは、大抵の場合、聞き過ぎるようになった)年齡を覚えているだろう。このひっきりなしの質問は多くの人にとって忍耐力を試されるものとなるが、これは育まれるべきものであって、やめさせるべきものではない。
私はときどき、私の生徒が育っていくときに、親や教師はどうやって彼らの好奇心に対応したのだろうと思うことがある。彼らは質問をするように促しただろうか? 実験をするようには? リスクをとることは? 私は現在、60人の成人の生徒に職場で教えている。彼らはみんな働き過ぎの人々なので、彼らの暮らしには、ありとあらゆるものに加えて英語学習の時間を捻出する余裕がそれほどないのは分かっている。しかし、新しい生徒が自然に、そして余分な仕事のように感じない形で上達するかどうかは、私は新しい生徒とわずか数時間一緒にいれば分かる。
こうした生徒たちは好奇心を示す人たちだ。彼らは、どのレベルでも、何か ― 新しい単語やフレーズ、表現 ― を取り上げて、試してみる人たちだ。彼らはパターンを見出して、それに従う。そして、それを分解してみようとする。パターンを作ったり、分解するのが楽になってくると、彼らは「…と言うことはできますか?」と質問し始める。もっとレベルが上がってくると、「XとYの違いは何ですか?」や、「それはZと同じですか?」などと聞くようになる。彼らがパターンに従い、パターンを分解し、質問をするのにはまっとうな理由はない。しかし、彼らがそうするとき、彼らの脳は関連する語彙と関連や連想を作っている。
クラス外で復習する時間があるときに、情報を最も速く理解し、最も長く保持しているのはこうした生徒たちだ。身体の運動と似ている。運動すると、筋肉が緊張して、筋肉痛になる。しかし、すぐに修復して、もっと頑丈になる。生徒の多くが身体のためにはジムにとても打ち込んでいるのに、言語の訓練を怠るのは残念だ。言語は筋肉と同じように、「使わなければ駄目になる」ものだ。
好奇心のために命を落としたときにその猫が何をしていたのかは私には分からない。しかし、元々の表現は「Care killed the cat.」だったことが分かった。「Care」は当時は「worry(心配)」という意味だった。だから、何が起こるかと心配することが実際には問題のようだ。どちらかというと、好奇心は私たちの精神衛生上良いものだ。語学に好奇心を持つ、人に好奇心がある、芸術、音楽、食べ物…これらはみんな、つながりを作るのに役立つ ― 脳の中だけではなく、周りの人々や世界とのつながりも。