日本国外から友人が東京へ来るとき、彼らが最も見たがる近隣地域は原宿だ。多くの人々にとって、彼らが描く日本のポップカルチャーの全般的な認識は、日本の首都の比較的狭いこの地域から切り取られたイメージに基いている。成田空港で飛行機を降りて、虹色の衣装やゴシックロリータの服装をした若者に囲まれると期待している。
しかし、原宿をまともに歩き回ってみると、きゃりーぱみゅぱみゅそっくりになろうと目指す人たちよりも、大勢の観光客が目に入る可能性の方が高い。この地域を歩いている人々の多くは、ラフォーレのショップではなくユニクロで買い物をしているように見える。原宿はかつてはファッションと若者文化の最先端にある街として知られていたが、急激に変化している。
この不安は、今年これまでに明白になった。原宿の草分け的ストリートファッション雑誌『フルーツ』が創刊20年で出版を終わることが発表されたのだ。いくつかの有名なファッション中心の出版物もその後まもなく閉刊を発表したが、『フルーツ』が最も原宿のスタイルを代表していた。日本国外に住む人々の多くは、この雑誌の輸入版のおかげで、日本のカラフルなファッションに初めて触れていた。
『フルーツ』の閉刊と、原宿が新しい創造の中心というよりは観光地という感覚が増してきたことと相まって、このゾーン(原宿のこと)は「死んだ」と宣言する人や少なくとも劇的に変化したと言う人も出てきた。後者は事実である一方、原宿は ― ファッションのように ― 常に変化している。1970年代、1980年代には若者のかっこいい文化の発信地だったが、その後の数十年でその王座を渋谷に奪われた。2000年代にはポップ文化の中心ですらなかったとも言えるかもしれない。この頃には秋葉原がその称号を獲得していた。
しかし、原宿は常に日本のファッションの中心のイメージを持ってきたし、カラフルでミスマッチなことも多い日本のスタイルへの興味が、この10年の初めに、原宿のイメージを回復させるのを手伝った。それでも、その認識は現実とは合わない。『フルーツ』の創刊者青木正一氏が雑誌の閉刊の発表の後に述べたように、同紙の閉刊の最大の理由の1つは、写真に撮るクールな若者がストリートに少なくなったことだった。今日原宿を歩き回っていて目にしそうな人を思い起こしてみれば、確かにそうだ。
原宿のスピリットはそれでも生き残っている。この地域には今でも小規模のデザイナーやショップがある ― 彼らはあまり知られていないし、人通りの多い道から離れている。ファッションを大事にする、かつてはストリートをうろついていた若者たちは、写真を撮られるのを待っているだろうか? 彼らはインターネットに移っている。インスタグラムなどのウェブサイトは、彼らが自分をどんなふうに見せるかを思うままに操る完璧な力を彼らに与えている。こうした新しいモデルたちの多くは、何十万人ものフォロワーがいる。見るべき場所を知ればいいだけだ。