ある夏の日のランチタイムに、シドニー湾の入口に近いニールセンパーク沿いのレストランに主人の仲間が集いました。レストランから見える海は空を映して真っ青でした。
私は近くに座っていたジャーナリストのMitchell夫妻といろいろな話をしていたのですが、ひょんなことから、日本に住むオーストラリア人ジャーナリスト、Murray Sayle氏の話になりました。ご主人のAllanは、ロンドンに駐在していたとき、Phillip Knightlyという諜報部員に関する本をSayle氏と共に出版していたのでした。
Sayle氏の名前を初めて聞いたのは20年近く前で、元駐日大使のMenadueさんと主人の会話からでした。山梨県と神奈川県の境にある片田舎に家族と住んでいること、家は一度焼失したけれど継続して同じ場所に住んでいること、家はかなり荒廃していること、そして子供が3人いて、みんな日本語が流ちょうなこと、などでした。
そのときは話を聞き流していたのですが、ある日、Sayle氏が『ファイナンシャルタイムズ』紙に書いた小さなエッセイを読んでから、彼の名前が頭を離れなくなりました。日本における子供の教育は、英国の名門校イートンの教育にも勝るという趣旨の記事でしたが、中でも印象的だったのは、次のような一節でした。
Sayle氏が住む地方は冬に雪が多く、小学生の子供たちはグループを組んで登校します。毎朝、グループの子供たちがSayle家の前で名前を呼ぶと、Sayle家の小学生がランドセルを背負って出て行きます。そして、みんなで一緒に次の子供の家に向かうというのです。
日本人の子供たちに交じって深い雪の中を登校する外国人の子供たち——その光景は父親を深く感動させるものだったに違いありません。Sayle家の子供たちは、小学校で土地の子供たちとまったく分け隔てなく扱われたそうです。彼らが卒業したあとは、校長先生がベトナムの子供を受け入れた、という話が最後に書いてありました(Sayle氏がシドニーに来たときに、家族の写真を主人にくれましたが、可愛い3人のお子さんが笑って写っていました。その写真は、記事と共にシドニーの家のどこかにまだあるはずです)。
さて、私の頭の中から徐々に雪の光景が消え、レストランに差し込むまぶしい光に気が付きました。Sayle家の子供たちはその後どうしているのかとAllanに聞きました。男の子の一人はシドニーの大学に入ったとのこと。しかし、次の言葉にあ然としました。
「今はもう日本に帰ったよ。彼の英語が変だから、周りの学生から相手にされなくて」。
ゆっくりと窓の外に視線を移しました。ビーチやプロムナードを歩いている人々が視界から消えて、入道雲と濃紺の海が強いコントラストとして目に焼き付きました。
強い光も走馬灯のような現象を心の中に呼び起こすのでしょうか。私自身の学生時代が思い浮かびました。外国語である英語との格闘。最終学年のときは2、3時間という平均睡眠時間から来る疲労との格闘。そして、精神的にかなり参っていたのでしょう、自分がみんなに嫌われているような被害妄想——。すべての単位を取り終えたあと、この苦しみが紙切れ一枚に表されるのがむなしく思え、卒業式には出席しませんでした。卒業後は、大学の方向に車が走っていると感じると、吐き気を催しました。
確かに、オーストラリアには異質なものを受け入れない、保守性のようなものが残っています。それは、開けっぴろげなアメリカからの交換留学生と接したとき、その印象をより強くしました。Sayle氏の息子さんがアメリカに行っていたらどうだっただろうか、などと一瞬考えたりもしました。
レストランの周囲にいる人たちの姿が再び視覚に戻ってきましたが、かなり長い間ぼーっとしていたように思います。
最近、風の便りで、Sayle氏の息子さんは、オーストラリアに戻って大学を卒業したと聞きました。
私も日本に来る直前に、大学へ書類を取りに行きました。6年ぶりでした。心臓に圧迫感は感じたけれど、以前のような吐き気は催しませんでした。時が解決したのでしょうか。
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