"Do you have pets?" — この質問には、子供たちからいろいろな答えが返ってきます。そして、授業が終わり教室で一人になったとき、子供たちの話が思い出へとつながって、笑ってしまうこともあり、しんみりすることもあり…。
シドニーのわが家では、ラブラドール犬を2匹飼っており、彼らの思い出はシドニーの香りがします。一匹は、Byronという、イギリスの詩人の名に恥じない精かんな犬で、訓練も行き届いており、投げた棒を取りに行くのが得意でした。
ある日、海岸を散歩中、突然沖に向かって泳ぎ出し、棒状のものをくわえたときは、本当に感心しました。ところが、くわえた直後に、すごい形相をした人の顔が水面に現れたのにはもっとびっくり。シュノーケルだ!と気が付いたとき、私は、犬を海に残したまま逃げ帰りました。あのときは、泳いでいた人も犬も共にショックだったろうと思います。
あと一匹のBardは、シェークスピア(The Bard of Avon)の名前から想像される風格はみじんもなく、趣味は食べることだけ。これも海岸を散歩していたときのこと。岩の上に置いてあったバケツに顔を突っ込み、何か食べている様子。いつものことなので放っておいたのですが、しばらくして、岩場の蔭に釣り人がいるのに気付き、バケツの中身が釣った魚だと分かったとき、私は走ってその場から逃げました。背後に怒鳴る人の声。今だから笑える話ですが、しばらくは犬の顔を見るのも嫌でした。
息子の友達Danielが飼っていたLancelotというビーグル犬もよく思い出します。わが家の庭で、主人がまいたカタツムリ除去用ペレットを食べている姿は、アーサー王の勇猛果敢な家来のイメージとは程遠いものでしたが、ある日、勇敢にも虎の頭を食いちぎったのです。といっても、高価な虎の敷き物。牙をむいた眼光鋭い本物の虎の顔を見て、猟犬としての本能を存分に発揮したのでしょう。Danielの両親が買い物から帰ったら虎の頭が半分なかったとかで、「半殺しの目に遭ったのよ。かわいそうに」とお母さんが話していました。
アヒルにまつわる話もあります。ある日、わが家の庭にアヒルが迷い込み、塀の上に座ったまま動きません。警察に通報したところ、飼い主が見つかり、家族全員で引き取りに来ました。"Roast!" と叫ぶ少年との劇的な再会となりましたが、Roast(「焼く」の意)がアヒルの名前だと理解するまでに時間がかかりました。いくら可愛がっていても、この名前では気の毒です。
迷い込んだといえば、日本では、実家の隣がペット屋で、そこを逃げ出した体長1mを越すイグアナが実家の庭の木にへばりついているのを母と妹が発見。ペット屋に転げ込んだ妹は、「トカゲの大きいのが庭にいます!」と通報。昨日から捜していたとのことで、すぐに3人がかりで捕まえに来たとか。
生徒のお母さんも時折面白い話をしてくれます。愛犬を獣医に連れて行った古田さん。「先生!日本ではね、診療の順番が来ると『古田毛玉(けだま)くーん』ってフルネームで呼ぶんですよ」。 それが真実ならば、妹の家のテリアは「松田プッチーニちゃん」なんて呼ばれているのでしょうか。大作曲家に申し訳ない気がします。
都心に住む主人に言わせると、近所の犬は "They are not dogs!" だそうです。大半が小型犬で、あまりに大事にされすぎ野性味がないという印象からでしょうが、日本で最初に見た犬が、傘付きレインコートを着たチワワでしたからやむをえない面もありますね。
たまに見る大型犬では、有栖川公園で面白い光景を目にしました。2匹の大きな犬が逆方向から歩いてきて、水たまりを挟んで双方の飼い主がピタッと止まり、静寂。そして、一方の飼い主の「メス?」という問いかけに、他方が「オス」と答えた瞬間、サササッと左右に分かれたのです。一瞬、子供のころ読んだ忍者を思い出しました。
私自身のペットの思い出は悲しいものです。子供のころに飼っていたクロは、えさの時間になるとドアをたたくような愛嬌のある犬でしたが、あるとき行方不明となり、次に飼ったシロは交通事故で死にました。シドニー時代のByronやBardも引っ越すときにもらわれていきました。Byronと別れるのは主人が一番辛かったようです。
ペットの愉快な話と共に、別れた犬たちの顔が浮かびます。私自身、これからペットを飼うということは、よもやないでしょう。
|