私のクラスには今、中学3年生が3人います。そのうちの2人は来年高校受験です。英検の準2級をすでに取り、2級を目指しています。英語が好きというだけでなく、2級を取っておくと入学に有利だというので、私も一生懸命です。なぜなら、私自身が受験の落ちこぼれでしたから、何とか助けてあげたいと思うのです。
私の自己紹介の文中に、「大学へ行かず、幾多の職業を経て」とありますが、大学は見事に全部落ちました。浪人して予備校にも行きましたけれど、結果はもっと悪く、地方の短大も不合格でした。さかのぼれば、高校も第一志望の高校には入れなかったので、私の受験失敗の歴史はずい分と長いものがあります。ですから、日本の学校の受験に直面している2人の生徒には敬意と同情が混ざり合い、特に1人は不登校の経験があるので、なおさら熱が入ってしまうのです。
大学受験失敗後の「幾多の職業」の中で、最初の職は、片田舎にあった無認可保育園の保母でした。当時、団塊の世代が抱いていた中途半端な正義感が私にもあって、保母の話があったとき、「人のため」とばかり、すぐに飛びつきました。しかし、現実は、安月給で長時間労働。組織で働くことも窮屈で、辞めたいと思いながら3年いました。根のところで、子供が好きだったのだと思います。そして、今思い出すのは暖かな思い出ばかり。不思議です。
無認可でしたので入園希望者を断り切れず、いつも定員をオーバーし、園ではそれを隠ぺいするのに苦労していました。年に数回、市から調査団が来るのですが、園は事前に情報を入手し、そのときになると子供たちを庭に放つのです。飛びまわっている全園児の確実な人数を数えるのは無理だという計算からでした。
しかし、敵もさるもの。ある日、昼寝の時間を狙って抜き打ち調査に来たのです。動いているのは青い顔をして右往左往する園長先生のみ。市の職員は、これみよがしに「2、4、6、8の10」と声高に数え始め、その日、園は市から厳しい警告と訓戒を受けました。
どうしても預けなければならない家庭の子供たちが大半でしたが、保育料は収入に比例していたので、幼稚園より高い保育料を払っていた若い工場経営者から無料の母子家庭までさまざま。乳児も6人いて、担当の先生たちは大変でした。おむつ交換のときになると小さなお尻がいつも一列に6つ並んでいたのを覚えています。
面白かったのは、お父さんがちり紙交換をしているケンちゃんのお迎えでした。いつも早目に来て、商売用のトラックを門のところに停め、マイクロホンを使って「ケンちゃん!ケンちゃん!お父さんが迎えに来ましたよ」と、ちり紙交換独特の調子で呼ぶのです。そうすると、門に向かって脇目もふらずに走っていくケンちゃんと、かばんと園服を持って追いかける先生の姿が見られるのですが、その光景は今でも目に焼きついています。
節分には園長先生が鬼になり、各教室を訪れます。6人の乳児はキョトン! 年少児は大泣き。4歳児になると豆を投げる子もいるけれど遠慮がち。これが年長のクラスでは投げ方が違う。しかも殻付きの落花生なので、音もパシッ! ある年は鬼が「痛いじゃないか!」と怒ったり、ある年は、逃げた鬼が園庭の氷ですべり、ぎっくり腰で入院したり。
キャバレーで働いているため、ねじりドーナツのような頭に、すごいドレスを着て夕方バス停に立っていたお母さん。あまりに汚くて、園で風呂に入れてあげていた女の子。…思い出は尽きません。
精神的にはつらい時期で、3年後に職場を去りましたが、私にとってこの保母の仕事が、シドニーでの子育てにどれだけ役に立ったか計り知れません。子供の多少の熱やけがには驚かず、甘やかしもせず放任もせず。完ぺきではなかったけれども、子育てが楽だったことを思うと、この回り道の経験は非常に大きかったと思います。
都心で恵まれた環境にいる優秀な私の生徒たちが、このような回り道をすることはよもやないでしょう。しかし、今振り返ると、優秀でなかった分、私が得たもの。これはレールの上をスムーズに走って来た人より、大きいものであるような気がしてなりません。
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