子供のころ、何か一つのことに興味を持ち、それがきっかけで一連の本を読んだという経験のある方は多いと思います。私の場合は、第二次世界大戦のユダヤ人に対する迫害の歴史でした。このテーマに関する一連の読書は十数年に及び、私の人生に少なからず影響を与えたように思います。
発端は、小学校のころ親が買ってくれた世界名作全集や『世界の国々』という写真集でした。田舎でしたから外国人など無縁で、本の挿絵や写真から、美しい西洋の人々や国々にあこがれを強くしたものです。ですから、中学に入り、図書館で、『決して忘れはしない』というタイトルで、第二次世界大戦下のヨーロッパにおけるレジスタンスを扱った写真集を手にしたときのショックは大変大きいものでした。粗末な服を身に着け、苦悩の色を顔に浮かべた西洋人。そして、死体の山の写真の下に、「ユダヤ人」という文字。同じ白人なのにどう見分けるのかという単純な疑問から、私の興味は始まったのだと思います。
しかし地方都市で入手できる本には限界があり、本格的に読み始めたのはオーストラリアに行ってからでした。英語圏ですから資料は実に豊富で、ユダヤ人以外の作家が書いた本なども含め乱読しました。
しばらくして、Vishniacの "A Vanished World" など、戦前の中欧に住むユダヤ人コミュニティーを写した写真集を入手し始めたころから、一瞬にして消え去った人々の生前の生活に興味が移り、Shtetlと呼ばれるユダヤ人居住地や、ワルシャワを代表とする都市のユダヤ人地区の町並み、店、番地にいたるまで詳細に調べ、今になってみれば、この熱心さで受験勉強をしたら希望の大学にもすんなり入れたのではないかと思います。
シドニーでは私の興味に関し、表立って話しはしたことがありませんが、ユダヤ系の年配の建築家と食事をしたとき、ルーマニアの寒村出身だというので、ノーベル平和賞受賞者Elie Wieselが育ったSighetという村を知っているかと聞いて、けげんな顔をされたことがありました。また、ブダペスト出身のユダヤ人で迫害の生き残りだというタクシーの運転手と話がはずみ、タクシー代をただにしてもらったこともあります。
パレスチナ問題が起きてから興味は低下しましたが、長年の読書から、私は私なりの教訓を得たように思います。その一つは家族の死に対する覚悟です。私が38歳で大学に行った理由の一つは、一人息子から距離を置きたかったことでした。彼を外国の大学へ行かせることにも、ちゅうちょはありませんでした。私自身が子離れをしたかったのです。
あと一つは、語学の重要性です。当時、中欧には、ユダヤ人の共通語であるイーディシュ語しか話さなかったユダヤ人が多くいました。イーディッシュ文学の権威Singerの短編には、ポーランドで生まれ育ってもポーランド語を話せなかった両親のことが書いてあります。ですから、ユダヤ人たちが強制収容所やガス室に送られる寸前、ドイツ語・中欧の言葉・イーディッシュ語などを話せる者が選抜され九死に一生を得たり、土地の知り合いに隠まわれて生き残る率が高かった事実から、外国語は生き残る手段であるという思いを強くしたのでした。
シドニーで私は、息子の日本語を維持させるよう努力してきました。そして3年前、この教訓は現実の中で生かされることになりました。不況下の日本へ来てすぐに、息子は新聞社に就職でき、私は50歳でしたが英語教師の職を得ました。
今、私の生徒に、帰国子女で英語を自由にあやつり、英検準1級の勉強している中1の女の子がいます。学校ではアルファベットから教えるクラスで授業を受け、教師や試験形式に拒否反応を示し、「授業を受ければ受けるほど英語が口から出てこなくなる」と嘆いています。
長い海外生活とユダヤ人問題の一連の読書から今思うこと。それは、日本が、外部の人々と意思疎通ができなかったユダヤ人コミュニティーと似ているような気がしてならないということです。当時のユダヤ人コミュニティーは消えてなくなりました。日本は、英語圏と意思の疎通がすでにできている子供たちを見殺しにしてはいけないと思います。
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