私の勤める英語学校には、30代、40代の女性が多くいます。その中で、親の介護に当たっている先生の何と多いこと。手術後の長期入院を許可されず、90歳の父親が自宅に帰ってきたとかで、「このぶんだと、来年は勤められそうにもないわ」などとこぼす先生もいます。私の父も退職後、入退院を繰り返し、今のところ母が看ていますが、これからどうなることやら。
実は私は、英語のクラスが多くなかった1年目、ひょんな具合で介護の仕事をしたことがあります。日本に来て不安なことが多く、ヘルパー2級の資格を雑誌で知り、取っておいて損なことはないなと、ある大手の介護学院に通いました。日曜日のため、生徒は現役の、または退職したサラリーマン、学生、姑を抱える方などさまざまで、大変楽しいときを過ごしました。
驚いたのは、卒業間際に、学校と同系列の施設から「働きませんか」という誘いを受けたことでした。港区在住のヘルパーが少なく、新卒予定者名簿にあった私の住所を見て電話をかけたのだとか。突然のことで、そのときは明確な返事はしませんでした。
最後の訓練は、仲間と離れ、一人で家庭介護の実習です。私には池袋の施設が割り当てられました。まずは自転車が与えられたのですが、高校以来乗ったことがなく、しかも池袋の繁華街をすごいスピードで走る指導員の男性に付いていくので、工事現場の際を通ったときには死ぬかと思いました。
その日訪れたのは、「介護というのは生半可なことではできないぞ」と新人に喝を入れるのに最適と思われるような所ばかり。特に最後の家の汚さはシュールレアルで、嫌悪を通り越して映像の中のことのよう。居酒屋を閉めた主人が一人で住んでいるのですが、家の回りはすだれで覆われているため中は薄暗く、壁には色あせたツマミの献立表が掛かったまま。床は土間でした。
指導員が乏しい材料で食事を作り、名前を呼ぶと、部屋の隅の、施設が作ったという2畳ほどの畳の上の寝床がごそごそ動き、やがてどてらが歩いてきます。その中に、かろうじて分かるひげ面の顔。店のカウンターだったような所に座ると、背を曲げて食べ始めました。その間に掃除。といっても雑多なものが散在していて、最低限のことしかできない状態です。
最後に指導員が備品をチェックし、「また来ますね」と言って家を出、明るい夏の光線を浴びたとき、思わず「大変ですね」と慰労の言葉が出てしまいました。このとき「働いてみませんか」と誘われ、初めて「やってみたい」と心が動きました。ただ、通勤が現実的には無理でした。手近な港区でも同じような経験ができるのではと思い、事情を話して池袋はお断りしました。
港区の介護施設から再び電話があったとき、午前中のみという条件ですぐにOKを出しました。やり始めて失望したのは、地域柄、裕福な方たちが多かったことでしたが、英語の仕事が急に増えた8ヵ月後に辞めるまで、港区は港区でよい経験でした。
脳腫瘍手術後のリハビリのため、雨の日も散歩を欠かさなかったAさん。草花に熟知し、表参道にあった同潤会アパート周辺の草木の名前を端から言えるのには驚きました。奥様風の彼女と表参道でノビルを取ったり、青山学院正面玄関の銀杏並木でのギンナン拾いはガッツが必要でしたが、今は思い出すと笑えます。
若いころ豪遊したというBさんからは、当時の銀座・赤坂界隈の面白い話を聞きました。掃除をしている最中に絶世の美女の白黒写真を見つけ、「女優さんのブロマイドですか」と聞いたら、奥さんだとか。事情あってホステスになり、「ナンバーワンだったんだけど、よく僕のような貧相な男のところへ来たよねー。僕だと安心だったのかね」としみじみ語ります。奥さんは3年前亡くなられたとか。
周囲が音を上げるくらい口の悪いCさん。91歳。自分の仕事をしながら痴呆の父親の介護も兼ねてやっている娘さんに、「はしはここに置いとけって言っているのに。大学まで行かせてやったって何も知らないんだから」…。大学病院の待合室では、私に大声で親戚の悪口を延々と30分。薬をもらい終わった娘さんが「止めてよ。皆が聞いてるじゃない。恥ずかしいわ」。
ヘルパーの労働状況を垣間見たことも良い経験でした。長期間、介護職に当たっている方々の献身ぶりには本当に頭が下がります。そして、彼らの介護を通して見たさまざまな人生は、短期間しか働かなかった私の比ではなく、もっとドラマティックなものなのでしょう。
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