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小さな英語教室

By Yuri Kiba / キバ・ユリ

オーストラリア人の夫と結婚し、シドニー在住歴24年の筆者が、学校とは離れた教育の場で、子供たちを見ていて感じたこと、考えさせられたことを紹介するコラムです。
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Yuri Kiba / キバ・ユリ

Vol. 31 : 英語抜きの英語教室

 私が最初に受け持ったクラスの生徒は小6のR君とHちゃんでした。後に私のクラス数が急増したのは、この2人の私への評価によるもので、その出会いに運命的なものを感じ、私の彼らへの思い入れは特に強かったような気がします。しかし、その試練は大きいものでした。なぜなら、R君は、学ぶということを放棄した生徒でしたから。

 クラスで彼は、居眠りと止めどないおしゃべりに終始。幸いにHちゃんは、学校で、「何か文句あるの」と男子の腕を後ろにねじあげてやっつけるような性格だったため、R君の存在を気にもせず、逆に「面白い」と言って意気投合したので救われました。しかし、英検が近づいた半年後、どうしても一緒の授業は不可能となり、2人を分けざるを得ませんでした。R君は、学校のテストの準備以外はテキストなど見向きもしないので、好きなことをしゃべらせておいたのですが、話を聞くにつれ、自分のことをしゃべるという行為が彼にとってどんなに大切な意味をもっているのか気付くようになりました。そしてこのような授業が2年間続いたのです。

 話は日常生活のことのみならず多様でした。祖父と父親との仲違い、祖父の複雑な婚姻関係による経済的な争い、両親の別居と取っ組み合いのけんか、そして、父親が付き合っている女性たち、また、学校では保健室や校長先生の部屋に頻繁に行っては時間をつぶすことなど。そんな中、「好きなこと」の話もよく出ました。

 ある日、英語教室の白板に描いた彼の絵を見て、そのうまさにびっくり。彼いわく、学校では美術は1番で先生も目をかけてくれているとか。国語は、作文で大変良い点を取っていたそうです。「ねえ、好きなことやっていたら何時間やっても飽きないでしょう」と言ったら「うん。でも僕の家では無理」。

 父親は病院長です。一人っ子の彼は当然その病院を継ぐことを期待されたのですが、名門小・中学校受験は完敗。ごく平凡な私立中学に落ち着いたものの、成績は低迷気味。このため、親の教育熱には余計拍車がかかり、1ヵ月15万円もかかる数学の家庭教師や大学講師に理科を依頼するなど、理数系にかけるお金には糸目をつけませんでした。しかし、それらはすべて、実を結ぶことはありませんでした。

 人道的な気持ちから医者になろうというのではなく、お家継承のためという動機の弱さや、資産家の両親が別居しているため、彼には自由になるお金がたくさん与えられていたことも努力を妨げた要因だったでしょうか。「僕が医者になりたい理由は、職業欄に医者と書くとほかの人の見る目が違うから」などという俗物性も頻繁にのぞかせました。でも、勉強嫌いの一番の原因は彼の芸術志向の感性でしょう。英語のテキストに目を向けないことも、自分の感性に忠実なのだと思います。実際面白くないですから。学校の授業も同様です。ある意味では、日本の教育に適合できない典型的なタイプなのかもしれません。

 確かに一風変わった生徒でした。彼の家では先祖代々、名刀の収集が趣味で、それにひかれて、中2のときに居合抜きの練習を始めました。着物を着て道場に行くとのことでしたが、ある日、なんと、英語教室にその着物姿で現れたのです。おばあちゃんが見立てたという上等の紬(つむぎ)の着物に羽織、印伝の袋は、小太りの彼にはなかなかよく似合っていました。でもやはり中学生ですね。英語教室のあるビルの階段で、誰かから「よう、兄さん!カッコいいね。何のけいこ?」と聞かれ、「え〜え〜英語…です」。相手は瞬間絶句したけれど、「あ、そう。まあ、とにかく、がんばってよ!」と言ったとか。

 2年が過ぎ、学校の成績が上がらず(この授業で成績が上昇したら奇跡)、ついに辞めることになりました。お母さんから頂いたお手紙の中に、「英語だけは続けたいと本人が申していたものですから…」とありました。問題を抱えていても、彼は両親が好きだし、母親も絵の先生をアレンジするなど、それなりに一生懸命です。ただ、学校教育という枠組みの中では、歯車がどこかかみ合わなくなってしまったのでしょう。辞める直前、数学の点が上がったと喜んでいたので、これが上向きになるきっかけとなることを切に願いました。

 最終日、たこ焼きを買ってきて送別会。メールのアドレスを私に渡しながらドアを出るとき、彼の声がなんとなく潤んでいるように聞こえたのは、私の気のせいだったでしょうか。

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