その分厚い手紙のファイルは、シドニーのアパートの薄暗い部屋の本棚にありました。息子と主人の間で4年間交わされた英文のメールです。1998年初秋、10月の新学期に向けて、息子はオックスフォードに旅立ち、それから2001年10月に卒業するまで、主人とのメールをコピーしたもので、東京に帰るとき、私のスーツケースの半分は、この書簡で埋まりました。
先日、生徒の一人(9歳)がイギリスを旅行して、オックスフォードを訪れ、いわく。「36個カレッジがあるんだって。大変なんだってね」。息子を知っている彼女の「大変なんだってね」というのは、入学なのか、勉強か、はたまた留学生活なのか分からないのですが、親が知る限り、生活が大変だったことは確かです。なにせ、オーストラリアドルは英国の通貨の3分の1の価値しかありませんでしたから。
入学に関しては、本人がシドニーで音楽を学ぶのに疑問を感じた上、親友がケンブリッジに留学したこともあり、複雑な気持ちを抱えながらも、かなり努力したようです。高校の古典語教師で現在学長の Dr. Vallance の助力も大きいものでした。入学後の勉強の大変さについては、私はほとんど知りません。ただ、手紙をざっと読んでみると、チュートリアルで課された本の数、コレクションと呼ばれる学期試験など、所々に「大変だ」とは書かれてあります。
カレッジライフでは、部活にあまり積極的でない印象を受け、心配したこともあります。しかし、これらの手紙から、オックスフォードに近いロンドンに足しげく通い、安いチケットを買っては、芝居・オペラ・コンサート・美術展など、一流の文化に触れていたことが分かり驚きました。大学でも、芝居や映画に頻繁に行っていたようです。手紙の多くには、それらの評が書かれてあります。イギリスという国、または友達を通し、文化的に大学内外から得たものは大きかったのだなと、卒業後5年たった今、改めて安堵しました。
現在、アメリカの大学の卒業生や英国の大学の客員教授による手記などは多く見受けられますが、イギリスの大学の留学生と父親との手紙というのはまれのように思います。興味のある方がいらっしゃるかもしれません。しばらくシリーズで書いてみようと思います。
最初のメールは98年10月7日のものでした。ほかの生徒たちより少し早めに寮に入ったため、ガランとしていて寂しいというより不気味な感じだと言っていたのを思い出します。そして…
「この2、3日は少し落ち込んでいたけれど、ついに学期が始まって、学生たちの姿が大学中に見られるようになりました。僕の部屋のことを知っている学生たちによれば、僕の部屋は『せん望の的』だとか(*最上階のロフトで2階付き)。友達の部屋を訪問しているうちに、その理由が次第に理解できるようになりました。掃除のおばさんも僕の部屋は上等だと言っています。もっとも彼女に言わせると、僕の部屋は、『ヒーターがきちんと作動する数少ない部屋の一つ』らしい。
「僕の階の学生のほとんどはドイツからの留学生です(*最上階に留学生が割り当てられたようです)。まだ彼らに会ったことはないけれど、廊下でドイツ語を話す声が聞こえてきます。この階は『小ドイツ国』と言うべきか。
「毎朝7時起床と聞くと、親としてはうれしいのでしょうが、本当は起こされていると言った方が適切かもしれない。要するに、朝食に有り付きたければ、僕の階の学生がシャワー室に殺到する前にシャワーを浴びたいし、また、寝ている最中に、元気のいい掃除のおばさんが、部屋に急に入って来るのも避けたい、という理由からなんだけどさ。
「でも、今朝はフローリー(*クイーンズカレッジの新入生寮の名前)の朝食はキャンセル。皆、自分でエサ探し。英国の歓迎精神を、身にしみて感じた次第であります。しかしながら、この朝食の問題は微々たるもので、クイーンズの食事は概して満足できます。昨夜のディナーは、45分というこの世のものとは思えない時間制限を除けば、結構いけるものでした。この時間制限は、すべての学生がメインコースだけは終えようと必死の思いで努力する一方、デザートでは挫折する学生を輩出するという結果を生み出します。僕の推察では、時間制限を課すのは、学生たちに『今何を食っているか考える時間を与えない』、という効果があるのではないかと思うのです。どおりで、クイーンズカレッジの食事の評判は良いわけだ(*かなり英国的な皮肉です)」
息子には内緒で書いているので(うすうすは気づいているようですが)、著作権に関する問題は無視して、この続きは来年にいたしましょう。
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