斎藤兆史著の「日本人に一番合った英語学習法」(祥伝社黄金文庫)という本は題名に引かれて買ったのですが、読み終えてから、少し考えるところがあり、大分前に読んだ林望著の「テーブルの雲」(新潮社)というエッセイ集を掘り出して再読しました。一方的な思い込みの批判はしてはいけないと思いますし、斉藤氏の著書にも小学校の英語教育に関してかなり含蓄のあることが書いてある。それらを踏まえた上で、林氏が英国の和漢古書目録の編さんにあたった際、明治初期の外交官アーネスト・サトウの知られていない側面を発見して書いたエッセイから、明治の語学の達人に関して思うところを書いてみました。
斉藤氏に言わせると、「日本人に一番合った英語学習法」というのは、素読・暗唱、文法・多読だそうです。これは、習う者の年齢・環境および個性を無視すれば、語学学習法の概念としては間違いではないと思います。しかし、これが、英語修得の手段がなかった明治時代に、大変な苦労をして英語の達人となった日本人の英語修得法であったのだという説は、簡単には受け入れがたい。なぜなら、教材も何もないところから語学を始めるとき、その難関さは日本人だけでなく、日本語を学んだ外国人にも共通しているのではないかと思うからです。
明治時代、英語を学ぶ日本人は大変でしたでしょう。しかし、同様の状況下で日本語の達人になった外国人たちがいたことも忘れてはならないと思います。その中で、林氏は、日本語に通じた敏腕外交官アーネスト・サトウを挙げ、林氏の英国での和漢書籍の調査を通し垣間見たサトウの日本語学習を、「サトウのもう一つのかお」と題したエッセイで触れています。まずは、林氏が書いたサトウの経歴を要約すると…。
「ロンドン大学を繰り上げ卒業してまもない1862年、19歳で通訳候補生として来日。そのとき彼はほとんど日本語を知らず、早速日本語の修得に努めたが、明治維新6年前のこと、役に立つ教科書も教師も事実上皆無の状態だった。いかに悪戦苦闘して日本語を身に付けていったか、サトウはその著書「外交官の見た明治維新」(岩波文庫)の中で『当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーが「黄金虫」の中で暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった』と述べている。そのように試行錯誤しながらサトウは天才的資質と超人的な努力によって、瞬く間に日本語の達人となっていく」。
この経歴は、多くの方が知っての通りですが、林氏は、サトウの勉強ノートの中に「国史略」「山陽先生行状」「土佐日記考証」「近世野史」「江戸繁昌記」「孟子」「日本紀神代記」など、漢文体の書物を多く学習した跡を見出し、「幕末維新の難局に対処し、外交官としての激務をこなしながら、その業余の勉強であることを思うと、この人は、並の人ではなかったのだということが痛感される」と言っています。
また、毛筆を習ったサトウは、御家(おいえ)流と楷書を使い分けるようになったということですが、5万冊に及ぶ個人蔵書の、自筆による目録に接した林氏は、「その文字はとても外国人の筆跡とは信じ難く、ペン書きのほうが簡単だったにちがいないが、心を込めて毛筆を揮いつづけたその面影をなにか奥ゆかしいものを想起する」、とその感慨を述べています。また、林氏は目録の紙背に毛筆で書かれた会話文例を見つけ、「全体、老人(としより)だの、ヘボ儒学者なんざぁ、七面倒な理屈を並べ立てて、世間のコゴトを謂いたがるもんですね」という一例を紹介していますが、サトウの人となりが伝わってくるようです。
サトウも多読であって、膨大な数の日本の古書には自筆の書入れが多く、林氏は、「サトウの業績を想うとき、彼の日本に対する深い愛情と、日本文化についての偏らない理解があったことが看取される」と締めくくります。
翻って、斉藤氏が描く明治時代の日本の英語の達人は、アメリカ人に「ヤンキーかドンキーかモンキーか」と"当意即妙"でやり返したという岡倉天心。イギリスから劇団がやってきてシェークスピア劇を演じた際、「てめえたちの英語はなっちゃねえ!」と一括した斎藤秀三郎。これに加えて、「鈴木大拙ほどの英語を書いたり話したりできるのは、アメリカ人にもなかなかいなかった」「守山栄之助は出島のオランダ人よりオランダ語がうまいと言われた」など、明治時代だったからできたような逸話の羅列。背後には、文部省の会話重視の英語教育方針に対する批判があって、素読・多読・文法を強調したい理由は理解できるけれど、これら明治の英語の達人から「日本人に一番合っている英語学習法」をひねり出すことにかなりの無理があると思うのは私だけでしょうか。
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