最近、大学の夏期講習で、「英語論文の書き方」という講習を受けました。東京の数校の大学で教鞭を取っておられる英国人の先生が開口一番に「日本の学生が書くエッセーは欧米の大学のエッセーとは基本的に異なる」とおっしゃったとき、オーストラリアの大学で、「エッセー」に苦しめられた私はいたく同感しました。日本の学校で書く文章はいわゆる作文で、自由形式の上に、書き手の主観に重きが置かれるのですが、欧米流エッセーは、前書き・展開・結論が明確で、"I think …"で始まる勝手な推測が許されないのです。
『広辞苑』によれば、エッセーとは、1.形式にとらわれず、自由に書き連ねた感想・諸説。随筆。2.特別な主題についての小論。試論…とあります。しかし、日本の社会では2が教育の場に存在せず、ちまたでもエッセーというと、1の「随筆」の域を出ません。このような環境で教育を受けた日本人留学生たち。その数が増加している今日、日本のエッセー概念から抜け出せず、私と同様に苦労した方は多いのではないかと思います。
今回の講義で久しぶりに英語論文(エッセー)に触れ、改めて感じたのは、論理的思考を養うことが欧米の教育の根本で、少なくとも私が受けた教育では皆無だったということでした。先生は、欧米の大学では受け入れられない例をいくつか挙げましたが、「私はセクハラを直接経験したことがないが、思うに…」という出だしで書く学生の例にさほど驚きはしませんでした。それが私たちが書いてきた「作文」だからです。そして、「日本人の思考は、エッセー(論文)の結論に典型的に表れる」と先生は言います。学生たちの間で一番多い結論は、"It is a difficult problem and we need to think about it more. "「これは難しい問題だ。だからもっと検討する必要がある」 という文章だとか。そして先生は、「これは絶対に欧米のエッセーの結論にはならない」と言います。
この日本人の典型的な「結論」を読んで何か思い当たりませんか。テレビなどで政治家や大企業のお偉方の口から頻繁に聞かれる言葉です。皆さんの職場のミーティングも、もしかしたらこの言葉で終わりませんか。この先生の話を聞いて怖いと感じたのは、年配者だけでなく、若い学生も同じ思考をしているということ、また、独自の意見を持つ思考訓練の欠如、そして、結論が誘引する批判を避ける典型的な「言い訳」の表現だ、ということでした。
とはいえ、私は、日本のあいまいな結論の出し方を100パーセント否定するわけではありません。日本の結論のあいまいさは、かつては村社会の争いを避ける緩衝役であったでしょうし、今でも時と場合によってはやさしさになるからです。また、書き手の感情を押し出す日本のエッセー(随筆)には素晴らしいものがあって、私も好んで読みます。ただ、現在、巨大な経済力を持つ日本が、欧米思考を主流とする国際社会の中で生存していかねばならない現実を考慮すると、感情的で特異な日本の思考はなかなか理解されにくいし、誤解も招きやすい。
現状を見ると、論理的思考能力の必要性は、どの教育機関も念頭に置いていないように思われます。小学校への英語導入も、言葉の上達のみに焦点が置かれているような気がしてなりません。現在、国際機関の場で日本人が活躍できないのは、言葉だけの問題ではありますまい。強い独自の主張を展開していく段階的な説得力の欠如も、その大きな要素の一つではないでしょうか。
これらを総合的に考えた場合、将来国際的に堂々と日本を代表して活躍できる人材を育成するためにも、英語を中学から選択制にするという方針を、検討してほしいと思います。もし政府が中学生の英語を選択制にするならば、小学校の英語導入は、その選択までの準備期間として有効に使えるでしょう。そして、中学からの選択制に、言語そのものの習得に加えて、論文による欧米の論理的思考訓練の場が導入できれば、人材育成のメリットになることは間違いないと思います。
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