私など、教育に関して論理的に批判できる立場ではないので、外国生活の思い出や周囲の出来事などを、時勢に合わせながら書きつづっているだけなのですが、教師がやり玉に上がる事件が多い今日、だいぶ前に読んだ脚本家・橋田寿賀子さんの『おんなは一生懸命』(中公文庫・1986年)の一節を思い出して紹介したくなりました。それは、橋田さんが京城(ソウル)の小学校時代に担任となった先生の話です。
「(略)自分の顔に自信のない私は、誰にも好かれないことを知っていたから、いつも控えめであった。クラスの女の子たちが先生と親しげに口をきいているのを、遠くから見ていた…そんな私は白けた冷たい目をしていたらしく、先生には面白くない子にうつったのだろう。ますます先生からは敬遠され、そんな先生が憎らしくて、私はもっと反抗的な暗い目の子になっていった。先生のヒイキの女の子たちをみて、美人でないことは、すごくハンデを背負ってるんだと、子ども心にきざみつけられた。
小学校2年になって、担任の先生が変わった。あるとき、新しいセーターを買ってもらって、とても気に入り、カッコいいつもりになってウキウキ登校した。お昼休み、校庭の砂場で遊んでいたら、先生が近づいてきた。私はわざと知らんふりをしていた。媚を売るのはいやだし、またできるわけでもなかった。と、先生が、可愛いセーターだな、よく似合うぞと言ってくれたのである。思いがけない嬉しさで、私は舞い上がってしまった。だのに、なんて言っていいのかわからなくて、ムスッとしてしまっていたが、その日からしあわせで、またその先生に褒めてもらいたいばかりに、好きでなかった勉強に精を出した」。
そして、橋田さんはこう付け加えます。
「先生が自分を見てくれているというひとことの褒め言葉で、人生が変わることだってある。その記憶が強烈で、私は今でもできるだけ、ひとの長所を見て褒めることにしている」。
作家の林芙美子が尾道の尋常小学校に編入したとき担任となった小林正雄という教師も私の頭に焼き付いています。彼は、彼女の文才を早くから見抜き、極貧の家庭環境では入学が不可能であった当時の女学校への進学に力を尽くした人です。
裏を返せば、林芙美子は、特別に扱われた生徒かもしれません。しかし、こういう教師の熱心さは、「ヒイキする先生」とは一線を画しています。ヒイキというのは人格欠如の表れで、これがあらゆる面で表面化しますから、教え方も下手なら、生徒を見る目も持たず、果ては、ヒイキされている生徒にも悪影響を与える場合が相応にある。そして、不幸にして、この類の先生が消滅することはないと思います。
橋田さんの話に感動したのは、ヒイキや、林芙美子が教師から受けたような特別の処遇とは全く別の、「先生のひとことの褒め言葉」が持つ重みでした。その褒め言葉は一人の生徒の人生を変え、果ては「今でもできるだけ、人の長所を見て褒めることにしている」人間を育てた。
教育の荒廃が問われる今日でも、現場を好むのが教師です。日本の知られざるところに、このような話がたくさんあるような気がします。ただ、先生の褒め言葉を「うざい」と取る子どもたちには、得るものは何もありませんし、そういう子どもたちが増加していることも事実なようです。
今度新たに橋田さんの話を再読して、その背後に読み取ったもの。それは、「ひとことの褒め言葉」の重みだけでなく、子どもの、先生に対する感情の重みというものでした。褒め言葉を、「先生からの」褒め言葉として意気高揚する。この気持ちがあったからこそ、橋田さんの人生は変わり、今の脚本家・橋田寿賀子さんがあるのではないかとも思います。
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