私の意見では、英検2級程度の英語をマスターすれば英語は十分ではないかと思う。しかし、合格すればその上を望むのが人間の常で、わが生徒たちも例外ではない。その望みをくじくのも気の毒なので、一応準1級を教えてはいるが、単語は日常生活になじみがなく、生徒たちは苦肉の策を練っている。例えば語呂合わせ。antagonistic(敵対する)は「あんたが憎い」…で覚える。私が小話を提供することもあるが、そんな中、最近immerse〈浸る〉という言葉が出た。
日本の大学の夏期講習で、アメリカ人教師が説明したimmersion courseを思い出した。短期間に語学を覚える集中講座で、先生自身、アメリカで中国語を学ぶ際に、このimmersion courseというものに初めて出合ったとのこと。文字通り、長時間外国語に浸るコースである。
先生の説明を聞いてすぐに頭に浮かんだのは、太平洋戦争勃発時に米国で設立された海軍日本語学校だった。太平洋戦争に突入し、急きょ日本語を話す者を養成する必要に迫られた米国政府は、一般応募から選出した優秀な若者を特訓。戦後、日本と英語圏の文化の架け橋となる人材を多く排出した。
その中には、日本研究及び翻訳の分野で、多くの日本文学や日本事情を英語圏に紹介したドナルド・キーン、サイデンステッカー、オーティス・ケアリー、そしてライシャワー元日本大使などがいる。ドナルド・キーンの自伝 "On Familiar Term"(Kodansha America 1996)を掘り起こして再読してみると(STオンラインにコラムを書くようになってから昔の本を掘り出すのが仕事の一部となっている)、カリキュラムは1週間に6日で1日4時間。リーディング2時間、ディクテーション1時間、会話1時間という構成で、驚くほどきついものではない。しかし、11ヵ月後にはほとんどの生徒が読み・書き・会話に不自由がなくなっていた。
キーン氏は自伝の中で、上達の最大の要素は、「優秀な生徒たちの集団の中に自然に起こるライバル意識」であったと言っている。それは、語学学校以外の自主的な勉強の時間の多さを自ずと意味している。
また、ライバル意識以外に彼らを日本語修得に導いたのは、教師の熱心さであったともいう。戦時中ということで、アメリカ人に日本語を教えることに抵抗を示す教師もいたが、キーン氏は、初歩の生徒たちに教える日本人教師の忍耐強さと熱心さに称賛を送っている。生徒たちが教師の自宅に招待されることもしばしばで、子弟の関係は非常に親密だった。
「戦後、アメリカ人によって多くの日本の古典や小説が翻訳され、英語圏に紹介されたけど、その発端は、戦争中の語学学校であったのよ」などと話をすると、英語の問題を解くより小話のほうが面白いものだから、わが生徒たちは「へー」とか「すご〜い」などと神妙な顔をして聞いている。しかしimmerseという言葉を頭に入れるのには、少し長い話でありました。それにしょせん中学生。どの名前もなじみがなく、ライシャワー氏も彼女たちにとっては、やや古き時代の人になるようだ。
それでも次の週にimmerseという言葉を覚えてきたが、「いま、浸〜す」という語呂合わせであった。まあ、それでも良かろう。
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