私はこの映画を、息子に誘われるまで、見に行くつもりは毛頭なかった。「玉砕」という名の重さ・暗さもさることながら、外国の監督が作った映画の日本人など、映画『さゆり』のように時代錯誤・文化錯誤もはなはだしいものだろうという先入観があったからだ。その私が、数日後シドニーから帰った主人にぜひ見るように勧め、果ては、再度見たいという主人に付き合って、この映画を3回見ることとなった。
主人も、当初は私と同じ理由で興味はなかったし、アメリカ映画の配給が日本より早いオーストラリアでも、字幕の関係でまだ上映されてはいなかったので行く機会もなかった。日本でも字幕付きは限られていて、六本木ヒルズでは一日一回の上映のみ。劇場もスクリーンも一回り小さく、観客の大半は外国人だった。彼らの反応はいかに、と観察したかったが、私自身、泣いて目が真っ赤に腫れ、帽子を深々とかぶってさっさと出てきてしまうので、今のところ機会を逸している。
なぜ、これだけ重苦しい題材の映画を何度も見られるのか自分でも不思議でならない。あえて分析してみるならば、日本サイドだけの悲劇だけではなく、アメリカの兵士たちの苦悩や悲しみもまた同監督の『父親たちの星条旗』で表されているからだろうと思う。敵味方のどちらから見ても、戦争は、犠牲者を最低限に抑えるなどという効率の良さはなく、無駄が多く、それだけに悲惨で哀しいものだという想いが響いてくる。
また、監督の信条が貫かれている映画からは学ぶ点が多く、これも、何度も見たい理由である。この類の戦争映画に、市川昆監督の『ビルマの竪琴』がある。これは後に原作の虚偽が論争の的となったが、本より映画の方が優れていて、監督のヒューマニティーが強烈に伝わってくる。野ざらしにされている同胞の屍を弔うために僧侶となり、ビルマに残る選択をした主人公の心の葛藤は、私たちの今の生活にもつながる哲学がある。
『硫黄島からの手紙』も、生死の瀬戸際の生き様・死に様を考えさせてくれる。『父親たちの星条旗』も同様だ。凱旋パレードや賛辞の中で死んだ同胞を思う。そのギャップに耐えかねて再度復員する兵士。平和な今の、日常の悩みが実につまらなく思えてくると同時に、平和であることの安堵感にも改めて気が付かされる。
俳優選びもイーストウッドの才能であろうか。若い二宮和也や加藤亮などの起用は、「死にたくない」という若者の正直な気持ちを訴えるのに非常に効果があった。若ければ若いほど「生」への執着があり、それはやがて戦争の虚しさにつながっていく。そして彼らの想いは、俳優たちの演技はうまさで、観客に充分に伝わってくる。
24年間日本にいなかった私は俳優たちのほとんどを知らなかった。素晴らしいと思った二宮和也という俳優をサイトで調べたら「嵐」のメンバーとのことで、数年前、わがクラスの中学生がキャーキャー騒いでいたのを思い出し、「へー」と意外な感じがした。そのうち見る回数を重ねるにつれて、松崎悠季、尾崎英二郎、坂上信正、渡辺広など、脇の俳優の素晴らしさにも感動し、アメリカサイドの選択眼と日本の俳優層の厚さに改めて敬服した。
アカデミー賞の作品賞受賞は難しいような気がする。アメリカでは字幕付きの映画は敬遠されがちだし、拍手で終わるようなハリウッド的筋書きでもない。また、戦争映画ということで日本に対する国民感情も考慮しなければならない。しかし、賞の有無はともかく、この映画は、『父親たちの星条旗』と共に、秀作として映画史に残るものと思う。
イーストウッドは、黒澤明を意識していたようだが、米軍上陸のシーンは、それを迎え撃つ日本兵の目線から捉えられていて、『七人の侍』の馬で疾走してくる敵を迎える農民の姿を思い出す。敵を迎え撃つサイドの視点だから、ヘリコプターなどを使って上空から撮影するようなことはしない。そして、音を使わない。それが現実なのだ。それだけに迫力がある。
そして最後に、一兵卒の西郷が、負傷したアメリカ兵の横に寝かされるシーンがある。彼は海の方に顔を傾け、口をわずかに動かしただけのかすかな微笑を見せる。英雄でもない。拍手もない。この一兵卒の「戦争は終わった。妻と娘に会える」という喜びがそのわずかな表情から伝わってくる。これが、この監督のすごさだと思う。
|