シドニーでは、息子を通して駐在員の子供たちや母親たちと知り合い、日本では目黒区と世田谷区の境にある英語教室で多くの帰国子女に接し、海外生活と帰国後の教育問題を改めて考えさせられた。と同時に、子供たちの家庭環境や年齢、また、教師などそのほかの要素によって適応の程度が異なることも発見した。親の苦労も同情して余りあるが、子供は明確に自分の気持ちを伝えることができないから、かわいそうになる。また、自らの経験から、自分の分身を見ているように思えるときもあった。
アメリカで13年間、日本人駐在員の子供たちの教育にあたってきた市川力氏は『「教えない」英語教育』(中公新書ラクレ)という著書の冒頭にこう書いている。「私にとって一番ショックだったのは、英語でも日本語でも、会話では意思疎通ができるのに、読み書きとなるとどちらの言語でも困難な子供たちとの出会いだった。日本語も英語も自在に操れる『優秀な帰国生』はほんの一握りに過ぎず、多くの子どもたちは、二つの言語のはざまで翻弄され、気づいてみたらどちらの言語も中途半端になっていたというのが現実だった」。
市川氏はさらにこう言う…。「体験を通じて痛感したことは、圧倒的に英語優位の環境においては、ほとんどの子どもたちが、半年以内に、英語を聞き分け、話せるようになると同時に、それに反比例してまたたく間に日本語力が落ちていくということだった。この傾向は、渡米時の年齢が低ければ低いほど顕著で、渡米時期が幼児期から小学校低学年までの間である子どもの場合、半年もたたないうちに日本語力が低下し、よほど意識して使わない限り、日本語で話さなくなる」。
この、年齢による分析は、私の教えた帰国子女たちの精神状態に当てはまった。物心つかないころ、親に連れられて渡航し、現地の幼稚園や小学校に入れられ、慣れ親しんだころに帰国。その際の変化が、精神的に大きく影響を与えることは確かである。しかし本人は何かが変だと思っても分析する能力もないし、本音を説明する技量もない。表面的には平然としている場合が多いので、周囲も「子供は適応性がある」などと称賛しているが、とんでもない。実際に多くの帰国子女を教えてみて、程度の差はあれ、適応障害は多様な面に出ていた。
この適応障害が一番強く表に出た例は、小学校で登校拒否を起こしたK君だった。彼は、アメリカの西海岸で生まれ、小学校入学前に帰国。英語教室の門をたたいたのが小1のときだったが、お母さんが心配して延期し、翌年話合いの末、入学した。後に、幼稚園のときK君を知っていた生徒が「不思議な子だったよ」と言っていたが、確かに、どんな質問をしても宙を見つめていて、つかみどころがない感じだった。ただし、発音は素晴らしく、読みもできて優秀だったので、しばらく慣れるまで個人的に教えることにした。
彼が通う小学校に関する質問には答えなかったが、アメリカの幼稚園の話をさせると良くしゃべった。先生の名前が、モナとクッキーであることも知った。「戻りたい?」と聞いたら「うん」と首を縦に振った。そのうちに慣れてきて、急にテキストから顔を上げ、「シュワー」っと叫んで仮面ライダーまねをするのには驚いた。その後、主題歌を大声で歌い、仮面ライダーのアクションを披露するようになって、私も「かっこいー!」などとかけ声をかけていたが、同時に「こりゃ、学校の先生は大変だろう」と思った。
少し様子を見て、3年でもかなりできるR君と一緒のクラスにしたら意気投合し、楽しんで来るようになった。学校の作文に「僕の一番の友達」という題でR君のことを書いたらしく、お母さんが喜んで知らせてくれたのが目に浮かぶ。
しかしながら、3年の終わりごろから、急に態度が悪くなった。お母さんによると、担任の教師とうまが合わず、登校拒否を起こしたとのこと。ただ、私もそのころは時間が飽和状態で、個人的にみるのは無理があり、退職したあと連絡はとっていないが、新しいクラスの編成が悪く、やめたようだ。
彼のお母さんと、帰国子女に関する問題点を具体的に話したことはない。なぜなら、お母さん自身が海外の生活に適応できなかったのではないかと思われるふしがあったからだ。アメリカの大学を卒業しているR君のお母さんも、同様な感じを受けたようだった。言葉のジレンマは一番の適合障害の原因だが、K君を見ていると、海外に適応できない親もまた、子供に影響する精神的な要素の一つではないかと思うこともある。
帰国子女に関しては、ここでは書き切れないので、また次回に…。
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