南から北上してきた桜前線も東京を過ぎ、いよいよ東北地方へと春風をもたらす季節となりました。皆さん、いかがお過ごしですか。1ヵ月のお休みを頂き、僕のコラムも装いを新たに、新しいテーマでお送りします。題して「記者(ライター)ほど素敵なショーバイはない」。
ジャパンタイムズの編集記者という本業のほか、アメリカンフットボールのライター、TV解説者としても活動している僕が、これまでのスポーツライターとしての経験・体験を紹介するエッセーです。皆さんにとってなじみのある部分もあれば、全く知らない世界もあるでしょう。新聞記者の仕事を少しでも理解してもらい、できれば興味を持ってほしいと思って毎週頑張って連載しますので、どうぞよろしくお願いします。
今から桜の季節を15回さかのぼった1991年4月1日に僕はジャパンタイムズに入社しました。ちょうどその日は1週間の始まりでもある月曜日でした。同じ日に入社した仲間、すなわち同期は10名。今では僕を含み4人しか残っていませんが、みんなそれぞれの分野でジャパンタイムズを支えています。
僕の入社年は月曜日から金曜日までびっしりと新入社員研修がスケジュールに組み込まれていました。まだ10名のルーキーたちは配属先も決まっていないため、新聞業のあらゆる分野の職種を学びました。各部署の所属長の話を聴き、電話の応対・名刺交換の作法を教わり、社会人のイロハを叩き込まれたものです。
楽しかったのは証券取引所や国会の見学。そこで出会った先輩記者たちはとてもまぶしく見えたものでした。今の僕たちは、若い記者からどのように見えているのだろう?
金曜日の研修が終了すると当時の編集局長から10名の配属先が言い渡されました。僕は入社以来スポーツ部一筋で働いてきているためか、当初からスポーツ部を志願したと思われがちなのですが、実は違います。僕は最初は週刊STに配属されるのではないかと、内心では予想していたのです。ところが、僕の配属先は「報道部運動担当」でした(当時ジャパンタイムズではまだ運動部が独立した部署ではなく、報道部の一部だったのです)。僕は意外だなという気がしたのですが、僕を除く9名は全員「やっぱりな」と思ったそうです。
僕がずっとスポーツをやってきていて、大学ではアメリカンフットボールの選手だったことをみんな知っていたからです。だからといってスポーツ記者に向いているわけではないのですが、みんなのイメージではぴったり合っていたということです。
もっとも、これには理由もあります。ジャパンタイムズでは入社が決まっている内定者には前年の10月から毎月1本ずつ英作文の提出が義務付けられます。僕は、6回提出した作文のうち、4回がスポーツをテーマにしたものでした。これでは、スポーツ担当に配属されるのも無理はないですよね。
入社した後に聞いた話ですが、僕の課題文を見せられていた運動部の先輩は「ようやく運動部向きの奴が入ってくる」と喜んでいたそうです。知らぬは本人ばかりなり、だったのですね。
さて、入社の1週間後からいよいよ僕はスポーツ記者としての第一歩を踏み出すことになったのですが、いきなり大きな壁にぶつかってしまいます。それは何だったのでしょう。この続きはまた次回にお話しましょう。
次回予告:記念すべき初原稿
初めて自分が書いたものが活字になって新聞に載る。とてもエキサイティングなことなのですが、やってみると予想以上に大変だったのです…
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