現代は情報過多の時代だといわれます。ラジオやテレビといった電波媒体が登場したことで、見知らぬ土地の出来事が手に取るように伝えられるようになりました。インターネットの登場によってそれはワールドワイドに広がり、世界中のニュースが瞬時に地球を駆け巡る時代となったのです。
情報を発進する立場にある新聞記者として戒めなければならないことがあります。それは、「知っていること」と「分かっていること」は必ずしも一致しないということです。
いろんな情報がテレビやインターネットで伝わるようになった現在では、僕たちはいろんなことを「知って」います。しかし、必ずしも本当の意味で「分かっている」とは言いがたいことが少なからずあるものです。
以前に読書の話題を取り上げたことがありますが、僕は好きな時代小説を読んでいるときにこれを実感します。戦記ものでは必ずといっていいほど夜襲の描写がでてきます。夜襲とは夜の闇にまぎれて敵を奇襲することです。ここで問題となるのが月明かりです。
夜襲は事前に敵に知られてはいけませんから実行は暗夜を選んで行なわれます。ところが、夜でも明かりの絶えることのない現代に生きている僕たちにはこのあたりの事情がよく飲み込めないのです。
皆さんは月のある晩とそうでない晩の明るさの違いを実感したことがありますか?山や海で明かりのまったくない暗い夜を体験したことのある人も多いでしょう。しかし、そういった環境で長期間暮らした経験はほとんどないのではないでしょうか。
月明かりは意外と明るいものです。その月明かりを気にしながら敵に乗り込むときの緊張感は実際の月の明るさを知らないと「分かっている」ことにはならないのです。
「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れて行こう」というせりふを聞いたことはありませんか?これは京都を舞台にした劇中で月形半平太とその愛人が交わした有名なせりふです。
僕は最近までこの言葉の意味を、「春は暖かくなってきたから、多少の雨にぬれても風邪をひくことはないだろう。気にせず行こう」という意味に解釈していました。ところが、これに関して国語学者の金田一春彦先生が興味深い解釈を紹介しておられます。
金田一先生いわく、京都で春に降る雨は細かく、吹き上げるように降るのだそうです。ですから、傘を差していても濡れてしまうのです。そうすると、上記のせりふの意味はまったく違ってきます。月形半平太は「暖かいから濡れてもかまわない」と思ったのではなく、「傘を差しても仕方がない」と考えたのです。この解釈は京都の春雨というものを「分かって」いなければできませんね。こういった例はほかにも多いと思います。
最近は子供が巻き込まれる事件・事故の話題があとを絶ちません。僕自身が親となってからはこういった事件・事故に対する感じ方が大きく変わってきました。自分の子供に同様なことが起きたらどうしようと身近に考えるようになったのです。これは僕以外にも子供を持つ人には共通の考えかたのようです。
そして、親になって大きく変わったことは自分の親に対する気持ちです。親に感謝しなければいけないということはもちろん「知って」いましたが、自分が親になってみるとどれだけ自分に愛情が注がれていたのかを「分かる」ことができます。
僕たち新聞記者が取材に行くのも、「知っていること」を「分かっていること」に変えて、それを皆さんに伝えるためです。僕たちはマリナーズのイチロー選手が素晴らしい打者であることを「知って」います。しかし、彼を実際に目で見なければ本当のすごさは「分から」ないのです。イチローのバットスウィングの音を耳で聞き、走る姿を見て俊足を実感することが「分かる」ことの始まりです。
実際に彼の姿を見に行って、なぜすごいのか、なぜヒットを量産できるのかを考え、それを取材で裏付けするのが僕たち新聞記者の仕事だといってもいいでしょう。
情報がたくさんあり、どんな情報でも手に入る時代だからこそ、「知っていること」と「分かっていること」の違いには気を付けなければいけないと思うこのごろです。
次回予告:英語と日本語の一致・不一致
英語学習紙「週刊ST」のサイトなので、たまには英語の話もしなければ(笑)。英語と日本語には不思議な一致・不一致があります。例えば、「基本に忠実で絵に描いたような」と意味で「教科書どおりの〜」という言葉を使いますね。これは英語でも「Textbook〜」という言い方をします。では、携帯電話の言い方は日本語と英語ではどう違うのでしょう?
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