僕の好きな作家の一人に東野圭吾さんがいます。昨年に『容疑者Xの献身』で直木賞を受賞した人気作家です。彼の小説にはある食べ物がよく出てきます。それはsandwichです。
なぜそれに気付いたかというと、東野さんはsandwichを「サンドウィッチ」と表記するからです。この表記に違和感を覚えたのがきっかけでした。
Sandwichは「サンドイッチ」と表記するのが一般的だと思います。辞書にもこの表記で出ています。ちなみに、サンドイッチの大手チェーン「サブウェイ」のオフィシャルホームページでも、また、コンビニエンスストアの「ローソン」のサイトでも「サンドイッチ」と表記されています。
ところが、英語のsandwichの発音をできるだけ正確に日本語で書き表そうとすると、東野さんの「サンドウィッチ」が近いような気もします。英語の「wi」は「ウィ」という発音になるからです。「v」の音を「ヴ」というカタカナを使って表記する方法も一般的となりました。
僕が生まれた昭和40年代やそれ以前に比べると、現代の日本語では外来語が非常に多く、それだけ今の僕たちの生活の中で外国語が身近に感じられるようになっていると思います。そういった傾向の中で、できるだけ発音に近い表記にしようというのは自然な流れなのでしょう。
そして、昨今ではホームページやブログなどで自ら情報を発信する人が増えました。それだけ、「書き手」も増えたわけで、いろんな表記が存在するようになったのです。僕個人の考えを述べさせてもらうと、発音に近い表記を使うことは正しいと思います。でも、これも程度問題で、あまりに行き過ぎると逆に日本語として読みづらいものになってしまいます。
Slovak Republicという国は外務省のサイトでは「スロバキア共和国」と表記されています。ただ、ほかの文献では「スロヴァキア」と書かれているものもあります。僕が留学していたピッツバーグはアメリカのPennsylvania州にありますが、この州は「ペンシルバニア」、「ペンシルヴァニア」、「ペンシルベニア」、「ペンシルヴェニア」などと表記されます(ちなみにこのSTサイトでは「ペンシルバニア」と表記しています)。
このような地名や人名は固有名詞なので、「ヴァ」や「ヴェ」といった従来の日本語にはなかった表記方法が使用されることが多いようです。固有名詞なのだから音に忠実にするという考え方は理解できます。
では、Australiaは「オウストレイリア」なのでしょうか?violinは「ヴァイオリン」と書くべきでしょうか?
さすがにこれは行き過ぎですね。Australiaは「オーストラリア」であるべきだし、violinは「バイオリン」で十分でしょう。
新聞やテレビのように言葉を発信するメディアには表記や発音に関するルールが必ずあります。このルールはメディアや会社によって異なります。たとえば、ジャパンタイムズにはジャパンタイムズ独自の表記ルールがあるのです。これを「スタイル」と呼びます。
新しい外来語が生まれたときには、共同通信や時事通信といった通信社や日本放送協会(NHK)が基本的な指針を作成し、それにほかの新聞社やテレビ局が準拠することがあります。以前に僕は、あるスポーツの取材現場でこの3社の代表が集まって選手の表記方法の統一案を決めているのを見たことがあります。
しかし、最終的には各社が独自の表記スタイルを決定することになります。かつてEdbergというスウェーデンのテニスプレーヤーがいましたが、共同通信はスウェーデン語の発音に忠実に「エドベリ」と表記しましたが、新聞によっては「エドバーグ」とした例も数多くありました。
僕はアメリカンフットボールの専門誌2誌に寄稿していますが、この二つでも表記スタイルは大きく違います。Playerという言葉ひとつにしてもベースボールマガジン社の『アメリカンフットボールマガジン』では「プレイヤー」、タッチダウン社の『タッチダウンプロ』では「プレーヤー」と表記します。
手元に時事通信社の『最新用字用語ブック』があるので参考までに調べると、sandwichは「サンドイッチ」と表記することになっています。
僕たちのように職業ライターは必ずこの表記スタイルにしたがって文章を書かなければいけません。でも、皆さんがブログやメールで文を書くときには自分が正しいと思うスタイルでいいでしょう。ただ、あまりにも一般的でない表記は避けたほうが無難です。何事も過ぎたるは及ばざるが如し、なのです。
次回予告:「足元をしっかり見ろ」
先日、久しぶりにある先輩に会いました。この先輩は、いつかこのコラムでも紹介したことにある新人のころの僕に仕事のことをいろいろと教えてくれた「他社」の先輩の一人です。いつもいろんなアドバイスをくれる先輩なのですが、このときはお叱り(とかくと少し大げさですが)を受けてしまいました。そのときに言われたのがこの言葉でした。今の僕にとってはとても含蓄のある言葉だったのです。
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