「どうして、留学しようと思ったの?」って、よく訊かれます。
やっぱり難しいパズルに挑戦するときみたいな、簡単には解けない何かにチャレンジしたい、という本能的な欲求があったからじゃないかな〜。
私は、1974年に山梨県の田舎に生まれ、ずっとそこで育ったので、外の世界のことなんて全く分かっていない女の子でした。でも、エネルギーだけは体中に溢れんばかりにありました(脂肪もこの頃から十分に蓄えていたんです)。
留学を決めたのは15歳で、成田空港を出発したのは16歳と2ヶ月半のときでした。高校の入学式を終えたばかりのころです。中学生のころは友だちと遊んでばかりいて、もちろん、塾なんて行ったことなかったし(山梨に塾なんて、当時なかったかも?)。英語が、とくに得意という訳でもなく…。
ただ、渡米する直前、数週間だけ、スーザン先生というアメリカ人女性に英会話を習っていました。そこで、現地の高校へ直行する前に、彼女のご両親のお宅@ノースキャロライナ州で、しばらくお世話になることになりました。
私が、16歳のときにたったひとりでアメリカに留学したということを話すと、ご両親は、さぞかし心配されたでしょう、といろいろな人から言われるのですが、実は「お父さん大泣き事件」というのがありました。
出発の当日、両親や親戚が成田空港に見送りに来てくれたのですが、みんなお昼を食べているときに、お父さんが突然泣き出してしまったのです。自分が出張で外国へ行くときはいつも、すごく元気なのに…普通こういう場合、泣くのは私のほうですよね?
出発の時が近づき、私は長いエスカレターに乗って出国手続きを待つ人の列へ。
「かなちゃ〜ん、かなちゃ〜ん!」
とロビーからみんなが呼ぶ声を背にすると急に涙が溢れてきました。でも、涙を堪えている顔を見られたくなくて、結局一度も振り向かないまま旅立ったのでした。
そして最初の乗り換え地点、シカゴのオヘア空港へ到着!
初めてのアメリカで、オヘアっていうのは運が悪い。だって、そこだけで町が成り立ってしまうほど、大きいんだから。国内線と国際線の空港が別のビルにあるなんて思いもしないものだから、空港の中で、迷う、まよう。
空港のスタッフにチケットを見せては、
「イズ ジス オケー?」
とたずねると、
「オーケー」
という返事は、返ってくるものの、大きなジャンボを降りた後、どこへ行けばいいか、さっぱり分かりません。
困ってスーザン先生のお母さん(スーザン先生はハーフで、お母さんは日本人だった)に電話しようと、準備してきたクウォーター(25セント)を公衆電話に入れ、用意周到な自分に感心しながら番号を回して待つこと2秒。ところが英語で何かメッセージが流れてくるだけで、一向に繋がりません。
なぜって、州外からかけるときは、まず1をまわさなければ、いけないんだよね。そりゃ、繋がらないよね。トホ。でも、そんな知識はあるわけない(おい、そのグライ、勉強していきたまえって?)。
今、考えてみると、どうして自分が2度も飛行機を乗り換えて、目的地であるノースキャロライナ州のウィルミントンに辿りつくことができたか分かりません。2度目に飛行機を乗り換えたときなんて、チケットに乗り換えのゲートは#15と書いてあるから、
「1,2,3 …」
と数えていくと、15だけなかったりする。
ウィルミントンは小さな町だから、そこへ行く便は、限りなくヘリコプターに近い飛行機だけで、そんな「ヘリ行機」が離陸するゲートは、離れたところにあったりするんですよ。
やっと、ゲート15を見つけてミニ・サイズの「ヘリ行機」に愕然。
「まさか、これじゃないよね、アタシが乗るのは…?」と顔が青ざめていくのを感じながら、ここで引き返して日本に帰るのも、英語を話せない私には、また地獄。どうせ、どっちも地獄なら、「ヘリ行機」に乗るか、と悟り(?) をひらきました。結局のところ疲れていた私は空の上でクークー寝てしまい、空港に出迎えに来てくれたスーザン・パパに無事逢えたのでありました。
めでたし、めでたし。
こんなふうにして始まったアメリカ留学が7年にも及ぶとは、さすがの筆者も予期しなかったのでありました。
つづく。
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