前回お話したような事情で、私は春休みに、10ヶ月ぶりにふるさとの山梨県小淵沢町に帰ることになりました。
日本語の通じる旅行代理店に電話をしてチケットを取ると、期末試験のたいへんさも、「とーおっ」と、乗り越えられそうなエネルギーが沸いてきました。ほかの日本人学生のほとんどは、クリスマスのお休みに日本に帰っていたので、春休みはアメリカに残るとのこと。
今回、日本に戻るのは、私ともう一人、ユミちゃんだけでした。ユミちゃんは、日本ではインターナショナルスクールに通っていて、モデルもやっていた英語の得意な女の子でした。
後から聞いたところ、日本で待っている家族も、
「あとXX日で、加奈ちゃんが帰ってくるね〜」
と話していたようですが、私たちは私たちで、
「日本に帰るまであとXX日」
という日めくりカレンダーを作って、帰れる日をほんとうに楽しみに待っていました。
ユミちゃんとは、日本に帰ったら何を食べたいか、という話ばかりしていて
「あたしは、お味噌汁と、アジの干物と、しゃぶしゃぶと、ラーメンと……」
と、よくここまで食べ物の種類が思いつくなぁというぐらい、何時間も日本の話題で盛り上がりました。
私の高校では、休みの間は、あまりこれといった宿題は出ませんでした。これは、アメリカではどこでも同じのようです。
日本の中学に通っていた頃は、夏休みなどには宿題をまったくせず、新学期が始まってから、学校を休み、そのうえ家族を総動員してなんとか終わらせるといったような始末でした。だから、「日本に帰ったら、勉強しないでいいんだなぁ〜」と、この春休みを、2倍も3倍も楽しみにする理由があったのです。
しかし、人生とはそう簡単にいかないものです!
私が日本に帰ると聞いたとたん、アドバイザーのアネット先生とピアノを教えてくださっていたベティ先生が、二人集まってなにやら相談しています。
そして、日ごろ「英語の勉強がたいへんで」というのを理由にピアノの練習を怠っている私に向かって、
"Kana, you can play the piano as much as you want this spring."
(あら、春休みは日本で好きなだけピアノの練習ができるわね)
と上品な笑顔を浮かべるベティ先生。
"You have no homework, so you can CONCENTRATE on your piano."
(宿題もないし、ピアノの練習に集中できるわ!)
と駄目押しをするアネット先生。
でも、日本に帰ることが決定してパワー・アップした石黒は、このぐらいの「攻撃」には、びくともしません。ところが、ベティ先生はさらに、
You can play at assembly when you come back.
(春休み明けの全校集会で、発表しましょうね)
と言ってはしゃいでいます。
I will put your name down for it. <
(じゃあ、いまから正式に予定に入れておきますからね)
といつもの冷静な声でアネット先生。
ここまでくると、もう逃れられない。なにがなんでも全校集会で弾かなければならなくなりました。
そんなミッションを背負ってアメリカを出たのに、成田に到着したころには、そんなことは、すっかり忘れて、ユミちゃんと一緒に飛行機を出る人の列のいちばん前に並び、ゲートに入った競馬みたいにソワソワしていました。ドアが開くと、一生懸命走って、これまたトップで税関のチェックを終えたのに、ファースト・クラスに乗った人たちの荷物ばかりが先に出てきて、自分のスーツケースを受け取るのに時間がかかってしまいました。
やっと荷物をカートに乗せて大きな扉を抜けると、大勢の人が出迎えに来ています。ユミちゃんは、赤いバラの花を持って待っていたお母さんの姿をすぐに見つけて、走って行きました。
「ユミちゃんの家は、ゴージャスな家だな〜」
と感心しながら、迎えに来てくれるはずの東京の伯母を探しました。すると、何時間も前から立って待ってくれていた様子の伯母と、この10ヶ月の間に私よりずっと背が高くなってしまった弟が、手を振っているのが見えました。
「お帰り!」
「飛行機が着いてから、出てくるまで、ずいぶん時間がかかったね!
などと言われて、
「そうなんだよ!」
と、みんなですごい勢いでしゃべりながら、成田エクスプレスに乗るためにエスカレータを降りました。
弟が、カートを持ってくれて、伯母がリックサックを担いでくれました。それまで、ひとりでしょっていた荷物の重みから解き放たれて、自分は日本に帰ってきたんだな〜という感激で胸がいっぱいになりました。
小淵沢の実家では、テーブルいっぱいに私の好物が並べてありました。それから3週間、私は、ご馳走を食べては、ピアノの練習に励んだのでありました。
アメリカに戻る日は、小淵沢駅から特急あずさに乗ります。窓の外を眺めていると、いなかの風景がだんだん変わって、高層ビルが見えてきます。私は7年間の留学の間、休みが終わるたびに同じ特急に乗って成田に向かいましたが、この数時間が、まるで心に鎧をまとうようなプロセスだったことを、今でもよく覚えています。また、たったひとりで、リュックを背負ってアメリカに戻る準備をするための。
つづく。 |