7年間の留学のお陰で、英語の力がだいぶ付いていたため、翌年の春には希望していた大学院の英米文学課程に入ることができました。
関西の大学でしたので、名古屋の祖母に来てもらって一緒にお部屋を探し、家族に手伝ってもらって、山梨からたいへんな引っ越しをしました。アメリカの大学時代に使った教科書と辞書もたくさん持っていきました。
けれども、実際に講義が始まってみると、日本の大学院の文学部(もちろん、大学ごとに異なると思いますが)と私が卒業したコロンビア大学の文学部とでは、教育のシステムやスタイルがまったく異なっていて、戸惑うことばかりでした。
例えば、コロンビアでは、ゼミなどで意見がはっきり言えないことを何度も教授に指摘されていた私ですが、日本での授業は、interactive(相互的)というよりdidactic(先生が教えて、学生が聞く)といったスタイルがほとんどで、学生は意見を言うことをあまり求められていないのだな、と感じました。学会に出席しても、同じ印象を受けました。
また、大学院生でも修士1年目は、古典から現代作品まであらゆる作品を、滝のように読ませるコロンビアのやり方から見ると、いくら丁寧に分析しているからとはいえ、1学期に数冊しか作品を読ませないのは、学者を目指す学生に対して、"perspective"(視野)という点で、あまりにバランスを欠くやり方ではないかと、大学院の教育方針について疑問や違和感がどんどん膨らんでいきました。
そのうえ、担当教授の他大学への移籍なども重なって、日本の教育システムには自分の居場所はないのではないだろうか、とまで考えるようになりました。
振り返ってみると、この時期は、私にとって最も辛い人生の過渡期でした。大学生から仕事を持つ自立した人間へ、また、アメリカでの生活から日本での生活への変化にまったく順応できなかったのです。
大学院の生活に適応できなかったことをきっかけに、私は、7年間の留学についても否定的な気持ちになりました。
大学院に入学してからたった3ヵ月で、もう、とても続けられない気持ちになり、夏休みには、荷物をまとめて山梨に引き上げてしまいました。借りたばかりのお部屋は契約を解除し、退学届も出してしまったのです。
受験のために習ったフランス語の月謝、お部屋の敷金・礼金、大学院の入学金などを考えると、私は、さらにやりきれない気持ちになりました。親にあわせる顔がありませんでした。
そんなふうに申し訳なく思う一方で、
「あんなにがんばって、アメリカで英語を勉強してきたけれど、日本ではとても、それを役立てられそうにない。そういう場所が自分にはない」
と思い込み、泣き叫んで母親に八つ当たりをする日が何週間も続きました。
今考えてみると、本人が希望したとはいえ、娘を7年も留学に出し、経済的にも精神的にも精一杯サポートしてきた両親にとって、そんな自暴自棄になっている娘を見るのは、とても辛かっただろうと思います。
けれども、その時は、留学経験を活かせない自分が情けなくてみじめで、自分に対する怒りに飲み込まれていました。大学院を中退して山梨に戻ってきてからも、日本は、海外で努力してきた人間を受け入れてくれない国だ、とひとりで勝手に決めつけて、社会に対しても憎しみでいっぱいでした。「こんな社会をぜったい許さない」という思いが頂点に達したある日、スーツケース2つ分くらいあった、留学時代に家族や友だちからもらった手紙をすべて焼き捨ててしまいました。
けれども、そんなことをしても、留学という経験や自分を否定する気持ちから解放されるどころか、
「私のたったひとつの宝物までなくしてしまった」
という絶望感だけが残り、また、来る日も来る日も泣いて過ごしました。
そして、秋になる頃には、とうとう、ベッドから起き上がれないほどの重い病気になってしまいました。
つづく
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