2回続けてあまりに真面目な日記を書いてしまったので、読者の方は、ちょびつき筆者は、もうちょびつかない人間になってしまったのではないだろうか、と心配してくださっていると思います(笑)。
"Don't you worry about a thing, darling."
(心配、ご無用)
ウツ病(?)から復活した筆者は、アイボリーのスーツに赤のインナーという
「それって、日の丸?」
という、すごい浮きまくっているイデタチで就職活動を始めました。
今だから分かることですが、日本ではあんな格好をしていたら、とても就職する気があるとは、だれにも思ってもらえないでしょう。面接官だったら、まず、この子は協調性がないから採るのを辞めよう、と即決したくなるタイプ。しかし、本人は、至って真面目でした。
東京の地理が分からないうえに、no sense of direction(方向オンチ)の私は、「ウツ病が再発したらかわいそう」という心優しく過保護な伯母に助けてもらいました。
日本の大学を出ていないし、アメリカの大学時代にも就職活動をしなかったので、どこからどうスタートしていいのやら、分からなかったのですが、そんな伯母の協力もあって、なんとか、企業で英語を教える仕事に就くことができ、東京のあらゆる業種の会社に派遣してもらえるようになりました。
最初は、どの会社でも"native"の講師をリクエストしてくる中、日本人の私はなかなか仕事がありませんでした。けれども、お休みの先生の授業をカバーしたりしていくうちに、
「日本人の先生のほうが、日本人のつまずくポイントが分かっていていい」
と、考えてくださる方も増えて、数ヶ月のうちに、いろいろな企業に行くことができるようになったのです。
金融、コンサルタント、メーカー…と様々な業種で働く人たちに英語を教えたり、また、英語の書類作成などのお手伝いをしたりすることは、社会について何も知らない私にとって、とても新鮮で、視野を広げるいい経験になりました。
また、プレゼンテーションやタイム・マネジメント、インタビュー・スキルなどの講習会や研修に、会社から送り出してもらい、ビジネスの基本について学びました。
そして、私が英語を勉強してきたことを評価し、好意を持ってくれる人が、日本にもたくさんいることが分かったことが、大学院中退後、ずっと自己否定をしてきた自分にとって一番の収穫でした。
こうして英語を教える仕事をしながらも、留学以前からの作家になりたいという夢は持ち続けていて、自由になる時間はいつも、自宅でショート・ストーリーなどを書いていました。この頃から、7年間ほとんど使っていなかった日本語で文章を書くことにも、だいぶ慣れてきたような気がします。
英語を教える仕事は、たいへん興味深い仕事ではありましたが、企業に教えに行く時間は、早朝や夜遅い時間が多く、生活がとても不規則でした。
「きちんと決まった時間に働けたら、もっと小説を書いたりできるなぁ」
と、考えているときに、英語を教えていたあるフランス企業で、管理部長さんのアシスタント兼秘書として働かないかというオファーをいただきました。
大学院受験のために1年間勉強したフランス語を活かせること、勤務時間が規則的なこと、また、その管理部長さんが、こういう方を上司に持ちたいと思うような、向学心のあるステキなキャリア・ウーマンだったので、企業で英語を教える仕事を辞めて、外資系企業の管理部で働くことに決めたのでありました。
つづく
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