失態を繰り返しながらも(苦笑)、数ヶ月するとようやく秘書兼アシスタントの仕事に慣れてきたのですが、ちょうどそのころ、知人の方から、まったく別の仕事について、お話を聞かせていただく機会がありました。
ある百科事典のオンライン・バージョンの編集や、事典のインターフェイス(入り口)ともなるWEBサイトの構築というお仕事でした。
以前から、物を書く仕事につきたいと思っていたので、素敵な上司の下で働く秘書の仕事を辞めるのはいかにも残念でしたが、思い切って転職することに決めました。
かろうじて面接を通り、働き始めると、仕事の内容は想像していた以上に興味深いものだということがわかりました。というのも、この百科事典のオリジナルは英語で作られており、ジャーナリストでもあった編集長の方針で、ここ数十年の間に世界で起こった歴史的出来事を紹介し、そこからリンクを張って百科事典のさまざまな項目に誘導するしくみをWEB上に作るという壮大なプロジェクトだったからです。
言い訳かもしれませんが、私は7年間もアメリカに留学していたので、日本語での事典編集作業は、先輩泣かせのひどいものでした。そのうえ、秘書の仕事を経験した後でも、電話の応対など、社会人として基本的な常識がまだまだ身についておらず、「弊社」と「御社」を逆に言ったりしている極めて恐ろしい状況でした(きっと、「この人、雇ったのは、マズかった」と、回りの誰もが思っていたことでしょう。苦笑)。
なんとか、このアメリカ帰りの困った新入社員を活用しなければならない、かわいそうな mission impossible(不可能な任務)を背負った上司のHさんは、できるだけ日本語を使わなくてすむ仕事を考え出してくれました。英語でシカゴの本社と連絡をとる仕事や、外国人記者クラブの記者会見のバックナンバーをサイトで紹介して、事典の英語サイトに誘導する仕事、日本語であれば、いちばん簡単な大項目へリンクを張る仕事などなど、いま上司の苦労を思うと涙が出てきます。
私は初めて、有楽町にある外国人記者クラブへ行き、資料室でロバート・ケネディや三島由紀夫の英語による記者会見の音声を聴いて、それをサイトに掲載するために編集したり、緒方貞子さんの記者会見に出席して国連を紹介する記事を書いたり、また、イギリス・アメリカ文学の文豪を紹介するページのたたき台などを作ったりしていました。
この仕事は、自分がそれまで知らなかったことを知ることができる面白さや、取材をしていろいろな人物を紹介できることの醍醐味を、あらためて気づかせてくれました。
振り返ってみれば、私が留学したのは、そんなおもしろい出来事や人たちのことをいつか本に書きたいと思っていたからなのです。
「こんな面白い話があるだよ、こんな魅力的な人がいるんだよ、こんな素敵なことがあるんだよ」
と自分の体験を誰かに聞いてもらうという、幼い頃からのごくごく小さな楽しみが、その欲求の根底にあったような気がします。
留学から戻ってきた直後、日本語が下手だから、日本で教育を受けていない自分を受け入れてくれる会社がないからと落ち込み、どの方向に進んでいけばいいのか分からず途方に暮れていた状態から比べれば、とても大きな成長だったと思います。
「そうだ、どんな時でも、自分が好きなこと、自分が幸せと感じたり、嬉しいと思えるちょっとしたことを、積み重ねていけばいいんじゃないだろうか?」
この時、ほんの少しですが、大海に漂う小舟に乗っていた自分が目指すべき方向を見つけたような気がしました。帰国以来、初めて感じた確かな手応えだったように思います。
つづく
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