「石黒さん、留学時代に辛かったこと、ありませんでしたか?」
心優しい読者の皆さんから、よくこんなお便りを頂戴します。
実は、大学編を書こうか、書くまいか (ハムレットの "To be or not to be …."の心境? 笑)、また、もし書くとしても、どんなことを書けばいいのだろうか、と悩んでいた時期がありました。
と申しますのも、私にとっての留学は、(とくに大学生になってからは)失敗と挫折の連続で、何から書き始めればいいかさえも分からないほど、複雑で辛い生活だったからです。
すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、私は93年に高校を卒業したあと、そのままスムーズにコロンビア大学に入学できた訳ではありません。
今日は、大学編「スペシャル版その1」ということで、少し、その当時のことを振り返ってみたいと思います。
私の左の目の下には「泣きボクロ」があります。大学1年のときにできたものです。
高校を卒業した後、私に入学の許可を出してくれた大学は、10校以上も受験した中のたった2校でした。また、コロンビア大学にあっさりと入学できたわけでもありません。まず、ニュージャージー州(NJ)のドリュー大学で1年勉強して、次の年の夏、ボストンで超集中サマークラスを受けた後、編入というかたちで、やっと入れました。
今、思い返してみても、ドリュー大学での1年は、7年間の留学のなかで一番忍耐を強いられた年でした。
まず、高校と大学では求められる英語力に、たいへんな差があり、成績はどんなに頑張っても、CやD(Fは落第)ばかり。論文は、専門の教授に直接提出することが許されず、ESL(第2言語としての英語習得)担当のブラウン教授のチェックが必要でした。ブラウン先生はたいへん献身的な方で、夜中すぎまで私の論文を見てくださることもたびたびあり、それでも終わらない時には、次の日の早朝、授業直前までかかって文法や構成を直すことも・・・。こんなことが、週の半分以上も続く日々でした。
そこまでやっても、私の論文は落第すれすれの代物で、
"I am going home. I am going back to Japan."
「もう、日本に帰ろう。大学を辞めよう」
と、毎日のように思っていました。寂しくて、悲しくて、辛くて、毎朝、毎晩、寮の部屋で、ひとり泣いていました。そして、ある日ふとした時に、鏡に映る自分の顔を見たら、左目の下に「泣きボクロ」ができていたのです。
文学のクラスは、私のアドバイザーの教授に習っていたので、先生は、留学生の私を気遣って、シェークスピアの名作『オセロー』のヒロイン・デズデモーナのパートを次の講義で朗読するようにと言いました。特別な取り計らいだったと思います。
何日も徹夜で読む練習をしてクラスに行き、クラスメイトの前で読んでみるのですが、ちっとも上手に読めず、
"A Japanese Desdemona? It's weird, isn't it?"
(日本人が、デズデモーナ? 変じゃない?)
という、ヒソヒソ声も聞こえてきます。
"Okay, no one is gonna be able to understand what I say with this awful accent."
(確かに、こんな読み方じゃ、みんなぜんぜん分からないよ)という気持ちと、
"I came all the way from Japan. All alone. I went through so much shit. I can understand Desdemona, I think, better than anyone else here."
(あたしは、ひとりで日本から来て、いろいろ辛いことも乗り越えてきてる。だから、ほんとうは、このクラスの誰よりもデスデモーナの辛い気持ちが分かっているはず)
という全く異なった2つの気持ちが錯綜していました。
それでも、睡眠不足や、勉強がうまく行かないことには、耐えられました。いちばん堪(こた)えたのは、友だちができなかったことです。食事は、いつもひとりでしました。いつもひとりでした。そのうち、学校のカフェテリヤに行くのさえ嫌になって、母が日本から送ってくれるレトルトのご飯に、梅じそ味のフリカケをかけて食べるようになりました。
そんな自分がどうしようもなくみじめで、自分が自分を嫌う気持ちで打ちのめされそうになると、なぜか、もっと自虐的で自分らしくない行動に出てしまう悪循環な生活。臆病者の開き直りでしょうか? ほんとうの自分の気持ちに素直にならないことが、唯一できる抵抗、また、強がりでした。
顔見知りの人が周りにいる時は、いつも煙草を吸っていました。下手な英語をしゃべらなくていいように・・・。間が持つし、沈黙に耐えられるから・・・。自分のジャパニーズ・アクセントが恥ずかしくて、たまらなかったのです。「ちょっとした訛りは、チャーミングね」などと思える心の余裕は、当時は皆無でした。
NJのアトランティック・シティー(アメリカで、ラズベガスについで、第2のギャンブルの街)は、大学から車で行ける距離にあったので、年上の大学院生に誘われれば、朝まで一緒にギャンブルして過ごしました。
でも、ほんとうは、そんな遊び方は嫌いで、ちょっとも楽しくなくて、アトランティック・シティーにいると、ひとりでいる時より理解されない中で人といるほうが、何倍も孤独に襲われることが、痛いほど分かっていました。
"Will men do anything to escape loneliness?"
(人間は、寂しいという感情から逃れられるのなら、どんなことでもするのではないだろうか)
そんなことを漠然と考えながら、アトランティック・シティーの朝焼けを見ていたものです。
今でも、梅じそ味のご飯を食べると、あの頃の寂しい味がするし、シーツを一人でベットにかけると、大学の入学式でみんなが両親やお友だちに手伝ってもらって、部屋を整えたりベッドカバーをしているのに、自分はひとりでシーツをベッドにかけていたことを思い出します。
あれからちょうど、10年経った今年になってやっと、当時の話をみなさんにすることができました。あのときの孤独を10年かかって克服した気分です。
そして、今では、文学は心で理解するもので、英語は二の次だとも思っています(笑)。英語だって、学ぶこと自体をエンジョイできれば、少しぐらい発音がおかしくたって、自分のアイデンティティーを否定するようなネガティブな感情を持つ必要は全くないと思います。
もし、いつか『ちょびつき留学日記筆者の講演会』が実現して、みなさんと直接お目に掛かることになっても、そのときは、どうぞ驚かないでください! 例の「泣きボクロ」を隠すための私の厚化粧に(笑)!?
クレイジーなちょびつき筆者にも、隠したい心の傷があるんだな、とどうぞ、明るく声をかけてやってください。
つづく |