今までお話する機会がありませんでしたが、私は大学時代、第2外国語として韓国語を3年間も学びました(食い意地のはった筆者のことだから、韓国料理が大好きだからかな? と思っている読者の皆さま、どうぞ、そのまま読み進めてください!) 。
コロンビア大学のEast Asian Studies(アジア研究室)には、ドナルド・キーン教授という有名なジャパン・スペシャリストがいらっしゃることもあり、日本語はもちろんのこと、韓国語や中国語を勉強するのにとても恵まれた環境なのであります。
どの言語も、クラスがレベル別に細分化されていて、主に読み書きや文法を毎日1時間習う通常の授業に加えて、週に2度1時間半ずつ会話や聞き取りの訓練があるという、とてもintensive(密度の濃い)なカリキュラムが組まれています。
自習用として、教科書に載っている会話を録音したテープが学生たちに配られるので、私なんかは、キッチンで料理をしながら、
"Repeat after me!"
(繰り返し言ってみましょう!)
という指示に続いて発音してみるという定番の練習を、英語でなく韓国語でやるというのが日常でした。
私の韓国語のクラスは、なんと朝の8時スタートで、そのうえ、クラスの初めの10分間は毎回、単語のクイズがあります。私の住んでいたお部屋は、大学からたった6ブロックしか離れていなかったのですが、冬の早朝に、単語帳を見ながら大学へ向かうと、116丁目の角にある韓国語の教室のあるビルに辿り着くころには、もうまさに
"I am freezing my ass off!"
(寒くて凍死してしまいそうじゃー)
という感じ!
それにしても、ちょびつき筆者、英語もままならないのに、どうして、韓国語なのか? 未来のヨン様に会うためか? と不思議がられる読者の方も多いと思います(なになに? 不思議がってないって? ははは)。
まず、文学部の学生には第2外国語が必須になっていたので、英語以外の言語を何かしら勉強しなければなりませんでした。その中で、私が韓国語を選んだ理由は、アメリカに留学してから、
"Japan is a part of East Asia."
(日本は、アジアの一部なので)
ということをとても強く感じたからでした。
日本にいるころは、日本人はあくまでも日本人で、韓国人や中国人とはぜんぜん違う、という意識が強かったのですが、実際、白人や黒人の学生と一緒に、教室に座って授業を受けたり、寮で生活したりすると、やはりアジア人はアジア人同士、生活習慣や礼儀作法などの多くの点で似ていることに、まず気づかされます。
また、韓国や中国からきた学生たちと、どちらにとってもハンディのある英語という共通語で話をしているうちに、相手の国やそこで生きている人たちの感情を一生懸命理解しようとする姿勢が生まれ、英語や海外生活に関する悩みを相談しあうことが何度もありました。
アメリカ生まれの学生たちとの文化的ギャップを乗り越えようとする以前に、まず、そうやって得た大切なアジア人のお友だちともっともっと仲良くなりたいという気持ちから、韓国語を勉強することに至ったのです。
しかし、こうしてスタートした韓国語のクラスは、彼らとの関係をさらに深めることができた以外にも、思いがけないメリットがたくさんありました。
例えば、ちょうどこの頃の私は、英語のハンデを背負って文学部に入ったことをいつも気にしていました。それは、留学1年目や2年目とは違うレベルでの悩みでした。
毎日、分からない単語を調べたり文法を勉強していた頃は、英語という言語そのもののテクニカルな部分のみで悪戦苦闘していました。けれども、その段階を越えると、この言葉を上手に操れない限り、アメリカという国では受け入れられないのではないかという、強迫観念に近いものを感じるようになっていたのです。
しかし、そんな時期にゼロから韓国語を勉強したことによって、自分の英語力は韓国語の力に比べれば、捨てたものではないんだということ、そして、自分はその英語力をどのようにしてつけてきたのか、を冷静に知ることができました。こうして、いわば自分の成長過程を分析できたおかげで、失っていた自信を少しずつ取り戻すことができたのです。これは韓国語を勉強した予期せぬメリットでした。
また、韓国語を習うことで、「自分の人生についてじっくり考える時間」と「複雑な思考から解放される時間」を同時に持つという不思議な経験もしました。
英語が母国語でない留学生として、文学部で日々文学に触れながら、韓国語を習っていると、
"Who are you?"
(あなたは誰ですか?)
とか、
"What nationality are you?"
(あなたは何人ですか?)
と言ったなにげない練習のためのフレーズが、ある瞬間から、とても哲学的な問いかけに聞こえてくるようになったのです(笑)。きっと、それは、文学部の課題で読むいろいろな本の中で、自分と同じようにアイデンティティに悩む登場人物を見つけたりして、人生について考える機会が増えている時期に、韓国語のクラスで、そういった実に根本的なテーマを偶然にも投げ掛けられた気になったからかもしれません。
反対に、習い始めの韓国語では複雑な思考をめぐらすこともできないので、落ち込んでもマイナス思考にがんじがらめになることはなく、とてもよかったと思います。ですから、読者の皆さんにも、気持ちが沈んだら、新しい言語を勉強されることをオススメします(笑)。
ところで、NY に行ったらチャイナ・タウンだけでなく、32丁目に立ち並ぶ韓国料理店をぜひ、お試しあれ〜。とーっても、美味しいのです! ちなみに、3年間も学んだ韓国語はほとんど忘れてしまったのに、韓国料理をオーダーするフレーズだけはしっかりと覚えています。やっぱり、ちょびつき筆者は花よりだんごというタイプなんですね(苦笑)。
パート2につづく |